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雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ち付けても、倒れることはない。岩を土台としているからである。

愛されている光子

愛されている光子 9.分かった

正人は結婚を前提にして光子に会いに日本に行くからと言ってきた。「ええ、ちょっと待って。いつ来るの。でも考えなくちゃいけないね。もう、三年になるものね。手紙のやり取りしはじめてから。光子も三十歳になるのだし。結婚して、アメリカへ行こうか。」そんなことを考えながら正人に返事を書いた。正人から九月に日本に行くと言って来た。

そして九月に羽田で正人に会い、「ああ、あの手紙を書いた人だ。話下手で、日本語では話ができないらしい。わあ、大変。考えても見なかった。」まず山形に連れて行き、山司の本家などに挨拶に行った。「金髪じゃないね。日本人みたいだけど、日本語が話せないね」など言われてしまった。

そのあと祐天寺の伯父さん、伯母さん、横浜にいるお父さんの友人ご夫妻にも、いろいろ心配かけましたがと言って挨拶に行った。お茶の先生、最後に雅歌教授の家を訪ね正人を紹介した。教授は「淋しくなるね。でも山司さんはアメリカに行ったら、きっと神の子になれるね。正人さんのお父さんとお母さんは熱心なクリスチャンだそうだから。正人さんも山司さんもどうぞ神の子になってくださいね。これが神の御心なのだろうね」と言われた。光子は神の御心で行動するということをはじめて聞いた。雅歌教授の奥さんは、「そう、山司さんの肋骨の出所がアメリカに居たのだから、なかなか見つからなかったわけね」などと難しいことを言われた。

井上家のお祖父さん、お祖母さんのいる広島へ行く前に、横浜へ行きたいという正人を連れて行ったとき、横浜の港の見える丘の上で求婚され、エンゲージの指輪まで見せてもらった。光子は、今一度考えたく、広島へ行く汽車の中で返事をすると言って約束し、その日はホテルに送った。その晩、みんなに賛同されたし、雅歌教授に神の御心と言われたことに感動し、正人が無口だが優しそうだし、結婚に踏み切ろうと考えた。

広島へ行き、十月十三日の金曜日に、神戸の領事館で結婚するつもりだと報告した。なぜ十三日の金曜日なのかとお祖父さんと、お祖母さんは何かいけないことをするように言われた。いろいろ話を聞くと、どうも迷信のようなので光子は迷信など信じないことを話、理解してもらった。それに正人の帰国の日が迫っているのでその日しかなかった。

お祖父さんとお祖母さんは納得し、喜んでくれて、光子という子がいるとは聞いていたんだけど、もしものことがあったらいけない。折角アメリカから来て結婚できないで帰るのは正人が可哀そうだと、広島でもあの人、この人と物色していたそうだ。

光子と正人は、十月十三日金曜日に、神戸の領事館で、正人のお母さんの弟、義人伯父さんに立ち会ってもらって結婚した。京都を見たいという正人と新婚旅行を兼ねて見て周り、肺癌で弱っているお祖父さんをもう一度見舞い、「さようなら」を言って、正人は一人でシカゴに帰って行った。

光子はそのあとアメリカへ行く準備をし、荷物が多くなり、二月に船で行くことにした。それでお祖父さんの最後をみとることができ、お葬儀も無事終わり、お祖母さんとも半月ほど一緒に住み、いろいろ後始末をしたあと、出航日が近づいているのでやきもきしているお母さんのもとに、一月半ばに帰った。山形は勿論、お母さんの里で光子が疎開のときお世話になった北海道の丸山家、東京では雅歌教授、偏屈先生はじめ多くの友人知人に、出航日の前日まで忙しく挨拶して回った。出航当日は素晴らしい冬晴れの日だった。その日は朝早く、眠い目を擦りながら、北鎌倉まで出かけ円覚寺の老師にも挨拶をした。

船は貨物船であまり大きな船ではない上に、「二、八の荒れ」と言って一年で一番海があれる月だそうだ。これからの船旅が思いやられた。パッセンジャーはアメリカで勉強するという若者たち二人と光子だった。貨物船なので三人は一等船客並みで船長さんと一緒に食事ができるとのことだった。光子の見送りの人たちがあまりにも多いので船員さんたちから驚かれてしまった。天気は上々船の上でパーティーでも始まるようだった。光子は別れの寂しさを感じなかった。あっちこっちでみんな楽しく写真を撮ったり、「天気が良くてよかったね。」「これは幸先良しだね。」「元気でね。」「里帰りさせてもらえるのでしょう。」「直ぐ帰って来てね」などとお喋りに時間が経つのを忘れた。

「ぼーーーー」と一つだけ。これは下船十分前の合図。光子は、ここでみんなと違う自分を知らなければならなかった。みんなは「さようなら」と挨拶をしてくれたあと、三々五々、長い長いはしごを注意深く降り始めた。光子はそのはしごを下ることはできないのだ。はじめて光子の心に別れということの辛さ、悲しさが押し寄せてきた。でも光子は、里帰りをするつもりだから、地球の裏側へ行こうが、これで会えなくなるなんてことはないと言い訳をして悲しみを脇へ追いやった。

二度目のドラがなった。パーサーがやって来て、テープを投げるのは一段上のデッキからだからと注意してくれた。

大学の友人、職場の同僚など若い人たちは、あんな梯子一分で下りられると言って、最後の最後まで一緒にいてくれた。あと一分のドラが鳴り響くと、みんなはしぶしぶと降りて行った。光子は一人になって梯子のところにぼんやりと立っていた。

パーサーがまた来て、テープ投げを手伝ってくれた。みんなに渡されたテープを下にいる一人一人にデッキから投げ落とした。その紙のテープが鉄でできていて、いつまでも切れずにお互いの手を中にあって意志が通じられるのではないかと思った。そんな光子の思いとは別に船は出帆のドラを響かせながらゆるゆると岸壁を離れ始めた。船が1インチ離れれば手の中にあるテープも1インチ出て行った。そして船が向きを変え始めると、テープは途中で切れてしまったり、相手が手を離したりしたため、ぎっしり握り締めていた光子の手の中には、あの人、この人のテープが残った。

このときの写真をアルバムに整理して送ってくれた人の手紙の中に、光子のお母さんは埠頭の一番端まで走って行って、離れて行く船をじっと見て涙していたと書いてきてくれた。お母さんは、光子とは今生の分かれで二度と会えないと言っていたそうだ。

光子は一人になってしまった。さっきまでの友人知人に囲まれたときは過ぎてしまったのだ。これから北海道まで、日本の島影を見ながら船は航海するはずだが、何も見えなかった。部屋係の人が来て、寒くなったから部屋に入るように注意してくれたので部屋に入ったが何もする気になれず、ベットの上に身を投げて静かに涙の流れるままにしていた。出航前の四、五日の疲れがどっと出たのか涙しながらいつの間には眠りに落ちていった。

夕食の時間を知らせにきてくれて目が覚め、急ぎ用意をして食堂に行った。その日の夕食はお客さん全員がキャプテンと一緒にすることができた。途中で他の二人のお客さんは席を立って行ってしまった。光子は忙しくて食事もよくしてなかったので美味しく食事をし、楽しいひとときをキャプテンやパーサーと過ごすことができた。眠くなり部屋に帰り、朝まで何も知らずよく寝ることができた。二日目も食事以外は殆ど寝ていた。眠るだけ眠り、疲れが取れていくと、今度は船酔いのため頭を枕から上げられなかった。悲しみに浸っている時間などなかった。

部屋係をするアシスタントの若いボーイも初航海とのことだった。ベテランの部屋係が青い顔をしたそのボーイに食事を運ばせたり、水を持って来させたり、部屋の掃除をさせたりした。光子は口を開くと何か出てきそうな状態だったが、光子の目がベテランの部屋係に何か言ったのだろう。そんな光子に、こうやって新しい人は訓練するのが習慣で、この子は若いし、やる気のある子だから三日で平常になるでしょうと言った。本当にその子は二日後に、大嵐の中、食事を運んできて、上手にテーブルの上においていった。船が左右上下に揺れてもテーブルの上のあるものは動かないかった。光子もそのボーイの真似をして甲板に出て歩いたり、シャワーに入ったりしてみたが、直ぐに諦めて、ベットにもぐりこんで静かにしていた。十一日間の航海中、八日間は船酔いのためベットにいて、殆ど食べなかった。サンフランシスコに着く前日にベットを離れ、シャワーをして、キャプテンと一緒に最後の夕食をさせてもらった。

サンフランシスコから、光子は飛行機でシカゴへ、荷物はそのまま船でパナマ運河を通り、ニューヨークへ、そしてハドソン河からシカゴに入るので二週間後に荷物と会えた。
シカゴのオーヘア飛行場には、正人と正人のご両親、これから光子がパパ、ママと呼んで仕えていく人たちが迎えに来てくれていた。

シカゴは何だか汚い街だなあと思ったのが、光子の第一印象だった。シカゴは札幌と同じ緯度なので寒い冬の暖をとるために、石炭が燃やされていた。そのためだそうだけど、裸の木々が真っ黒だった。家の外の壁もうす黒かったし、家の中の白いペンキの塗ってある壁も薄黒く汚れていた。

この真っ黒な木々もエープリル・シャワーがやってくると黒さがなくなり、そこから芽が吹き出し、一本一本の木々が生きてきたのには驚かされ、生きているというのは何と素晴らしいことかと思わされた。そして家々の内外の壁も、毎年、三月の末か、四月の初めにやってくるイースターの前に、特別のスポンジで拭いてきれいにした。何も分からない外国でお姑さんたちと三ヶ月一緒に住んだことはいいことだった。それから別のアパートを借り、スープの冷めない近さに住んだ。お姑さんたちが出席している教会の家庭集会へ誘われて出席したり、教会へ出席するなら禅寺へもと考え、佛教会と呼ばれる佛教徒の集会にも出席したりした。

光子はこれが主婦業なのかとつくづく感心して、今までとは全く異なった生活を楽しんだ。正人は朝六時に家を出るので五時に起きて朝ご飯とお弁当を作り、食べさせて送り出すが、朝に弱い光子はそのあとまたベットにもぐり込んで一人でゆるゆると眠った。雅歌教授はダブルベットはいいものですよと仰ったが、そうではなかった。夏は手足がぶっつかって暑いし、冬はシーツやブランケットを取られてしまって、寒くて目が覚めたりした。それに床から高いのでベットから落ちはしないかと怖かった。事実、正人は何回かベットから落ちた。

一眠りしてから目を覚まし、さて、何をしようかと考えるのだった。時間に追われるように生活していた光子には、全く思いもよらない生活だった。でも何をしようかなどと考える時間が光子には恐ろしかった。淋しさが押し寄せ、いてもたってもいられなくなるからだった。誰にも電話をかけられないし、訪ねる人もいないし、何もすることのない時間が一杯あるのだった。

そうだ!お掃除をする日だった。二人だけのアパートの部屋は汚れているわけでもないが、埃に弱い正人のために掃除機をかけることにした。掃除機をかけているとガーがーと音はするが、それ以外は何の音もなくシーンとした静けさがあり、それが胸を締め付ける淋しさになった。光子はその淋しさを吹き飛ばすように歌をうたった。口をついて出てきた歌は、讃美歌の一つ「いつくしみ深き友なるイエスは!」だった。一番、二番と掃除機の音を伴奏に歌い続けながら三番の歌になった。

「いつくしみ深き、友なるイエスは、かわらぬ愛もて みちびきたもう。
世の友われらを 捨て去るときも、祈りにこたえて 労わりたまわん」と歌い続けながら、友に会えない淋しに押しつぶされそうだった。友が光子を捨て去ったのではなく、考えてみれば光子が友を捨て、アメリカに来たのだ。でも光子は淋しかった。讃美歌の最後には、労わってくれるとあった。そのとき、またあの声が聞こえた。
「光子、光子。」ああ、またあの声だと思っているうちに、
「わたしは、今、ここにいるよ」と言った。

光子の思いも行動もいっとき止った。光子は掃除機を止め、衝動にかられ立っていられなくなり、キッチンのテーブルに座った。そして今の声はイエスだ。イエスが今ここにいて、見ておられると考えられた。でもそれをどのように理解するのか分からなかった。しばらくキッチンのテーブルに座っていたが、何か心が、そして体が温かくなった。光子は一人じゃない。イエスが一緒にいてくださるという安心した気持ちになった。

光子には考える時間がたくさんあった。声が聞こえた日から、気がつくとあの声はなんだったかを考えていた。キリスト教では、イエスの愛と恵みの表れとしての十字架の死とそれに続く蘇りは、信仰の中心の一つである。光子は十字架上に見られるイエスの哀れな苦難の死と、それに続く蘇りは信じられないでいたときだった。あの声は、イエスが一緒にいてくれると言った。死から蘇らなければ一緒にいてくれることはできない。それでは蘇りは本当にあったと信じられることなのだ。蘇りが信じられるならば、光子の疑問、「お祖母さん、何処へ行ったの」「光子が死んだらどこへ行くの」に答えが与えられたことになった。人は死んでも、イエスが蘇ったように、死を乗り越えた命があることになる。こんなに明確に疑問が解決できたのだから、信じるのが当たり前なのではないかと考えていた。聖書には、信じたものはひとりも滅びることなく永遠の命をえられる(ヨハネ福音書3章16節)と書いてある。

「でも待ってよ。お祖母さんも死んで蘇ったあとイエスのところへ行ったのだろうか」と気になった。お祖母さんはイエスのことなど知らなかった筈だから。教会が行っていた修養会に出席できるチャンスがあり、そこで講師にお祖母さんの行った先のことを聞くことができた。
「イエスを知るチャンスがなくで死んだ人たちの死後はどうなるのでしょうか。」
「その質問は本当に大切で、歴史の中で多くの人たちがそのことを論じ合ってきたのです。でも私は簡単に、それは神の責任ですと答えたいのです。聖書には、イエスは死なれて蘇られるまで三日間ありましたが、その三日間、獄に捕らわれている霊どものところに下って行き、宣べ伝えることをされた(第一ペテロ書3章19節)とあります。これはイエスを知らないで死んだ人たち、またイエスに従わなかった人たちの霊のいるところと私は考えます。そこでイエスは宣べ伝えたのです。イエスが誰かを。」
「そうですか。ありがとうございます。」
「死んだ人のために祈ることも長いこと議論されました。あなたは誰のために祈りたいのですか。」
「お祖母さんなんです。日本の山形の田舎の田舎に住んでいて、イエスのことを聞くこともなかったと思います。」
「そうですか。まずあなたの救いを確実にして、あなたが祈ってあげなさい」と仰った。
「はい。ありがとうございます」と光子は言った。わあ、これは大変。いろいろ分かったんだけどね。

そんなとき正人は日本に帰って来るようにと言ってくれた。光子のお母さんと約束したんだそうだ。三年したら帰すって。それで三年目の二月に日本に帰ることになった。光子は、雅歌教授と教授の読書会の人たちとも話し合い、光子はキリスト教が少し分かったことを話し、イエスを信じる祈りをするときの証人にもなってもらおう。日本行きは、雅歌教授的に言えば神の供えてくださったこと、必要なことと感謝して行ってこようと思った。

寒くて、汚いシカゴの冬から逃れ、梅の花の咲き始めた日本へ娘と一緒に旅立った。日本は良かった。知人、友人が喜んで迎えてくれた。この三年間に亡くなった人もいたことは悲しかった。山形のお母さんのところにまず帰った。光子は、お母さんが軽い脳溢血を患い倒れたことを聞かされびっくりした。遠い国に行ったことが胸を締め付けた。お母さんは、そんな光子の悲しみを吹っ切るように、元気に、孫達に囲まれてまごまごするねと言って喜んでくれた。光子は、そんなお母さんに信じる対象を変えることを言うのを少し臆したが、ある夜、思い切って切り出した。光子はキリスト教信者になることを。お母さんは以外と簡単に、おまえは山司家を出て、他の家に嫁に行ったもの、結婚の相手の家庭の皆さんが信じていると同じ信仰を持つことは大切なことと許してくれた。

これで思い残すことはない。あとは雅歌教授に「先生、分かりましたよ」と言って祝福のうちにキリスト者となろうと思った。そんなとき東京から、四月のはじめ、箱根にある大学の寮で光子のためにに歓迎会をするが、日時はどうかと電話があった。まただ!雅歌教授が言うだろう、神のみ心なのだよって。天では、一人の不信者を迎えて喜んでくれるだろう。

分かったと言っても、分かっていないことが一つあった。それは「罪」に関わることだった。これが光子のこれからの人生に問題になることをこのときは知らなかった。
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肉まん、あんまんのレシピを続きにかきます。見たら作ってください。そしてコメントもお願いします。

愛されている光子

愛されている光子 8.チェンジ

東京オリンピックのあった年、光子は将来、夫となるかもしれない人、正人と、早朝の羽田ではじめてあった。九月の初旬だったのに肌寒かった。光子の心の中には、期待と恐れに似たものがあったのが、肌寒さを感じさせたのか。
光子の結婚は写真結婚だろうか。いや違う。ペンパル結婚だろうか。どうもそれとも違うけど、その両方だろう。光子は、知人友人を通してのお見合いの話、同僚、同級生から将来結婚につながる交友をと誘われた中から、シカゴにいる人と結婚を前提とする手紙のやり取りをすることを選んだ。光子が二十六歳の時だった。
光子は、六本木にある森嶋家の離れを借りて住んでいたときのことだった。そこの大家さんは交通局に勤めていたが、同僚の方から頼まれたと言ってその話をもってきた。同僚の方の姪御さんが結婚してシカゴに住んでいるが、最近手紙を貰って、義兄がいまだ結婚していないのだが誰か英語ができてアメリカに来たい人はいないだろうか、探して欲しいと言ってきたのだとの話だった。大家さんはその話を光子に持ってきて、いい話と思うのだがどうだろうか、考えてみてくれるようにと言った。
山形と東京は離れていても、汽車で一夜明ければ行ける距離なのだから、家族に何かあれば直ぐに行けるが、アメリカではどうなるのだろう。アメリカは行って見たい国だが、地球の反対側だし、お父さん、お母さん、家族とも随分離れてしまうけどとまず考えた。
それに結婚するには、まず心の中を整理しなければ。こんな疑問だらけで、いつも何かを考え、生きることの意味も分からないようでは家庭を持ったって良い家庭は作れないではないかなどと考えると、家庭を作り、子供を育てていく自信が全然なかった。人を教育したり、育てたりすることの難しさをつくづく考えさせられていたときだった。
そんな中、相変わらず毎日のお勤めにでかけ、雅歌教授の読書会に、お茶に精を出し、座禅にも行っては生きていることの意味を探しあぐねていた。雅歌教授には時間があるとき、あちこちへと連れて行っていただいた。教授に浅草の泥鰌やに連れて行ってもらったとき、結婚のことを相談した。教授は結婚のことについて、
「この頃の若い人たちは恋愛などと言って、愛なのか、恋なのか、その中に溺れてしまっている。それでは長持ちしない。愛は徐々に育てて行くもの。一年目の愛と二年目の愛、十年後の愛は育っていなければいけないよ。」
「先生の愛は、どんな風に育ててるんですか。」
「うん。私たちの愛ね。私たちは恋愛じゃないし、見合いでもないし、私たちは二人とも救世軍で働いていて、毎日会っていたわけだから。救世軍の方々、また家族が話し合って決められたのかな。」
「先生、恋愛じゃないんですか。雅歌を解説した先生だから恋愛かと思ってました。」
「まあ、でも若いときから知っていたからね。恋愛的感情もあったかな。でも私は、まだまだ結婚できるとは思ってませんでしたよ。」
「どうしてですか。」光子はここのところが大事なところとばかり先生に質問した。
「私にはしたいことが沢山ありましたからね。その中の十分の一もできていなかったから。救世軍に勤めてはいたけれども、何かキリスト者としてしなければならないことが分かっていなかった。世の中には貧しい人たちが多くいたし、心は痛むけど私にできることなど何もなかった。山室先生のようにその人たちの中に飛び込んでいく勇気もなかったし」と、先生は仰った。その先生から、何かするべきことをしなかった痛みのようなものを光子は感じ、何もいうことができなかった。
「そして私は、結婚して子供もできてから、アメリカに勉強に行かせてもらい、妻にも、子供たちにも随分辛い思いをさせたと思ってますよ。」
「そうですか...。でもそのあと先生は本もお書きになり、大学で働き、若い人たちを指導し、いろいろ意味あることができたではありませんか」と光子は言った。しかしそれは何か的外れのことを言ったようだった。教授はそのことには何も言わず、
「山司さん、結婚するなら、その人に仕えられるように。また子供たちにも仕え、十二分に愛することができるようにしてくださいね」と、しみじみと仰った。そのあと銀座に出て、アイスクリームを食べて家に帰った。
家に帰ってから教授の話を反芻し考えていた。結婚すれば生きる目的は愛すること、それは相手に仕え、子供を愛し、家族みんなで生活を立てていくことと考えなければ、良い家庭を作り育てていくことはできなさそうだと思った。
一年位経ったとき、大家さんから呼ばれ、どうだろう考えてみたかねと聞かれ、光子はびっくりした。忘れていたわけではないが、もうこの話もないものと思っていたのに、まだ続いていたようだ。大家さんは、良い話と思うけど、やはりアメリカでは遠すぎるね。無理にとは言わないよと仰ってくれた。光子は、山形のお父さん、お母さんとはこのことについて相談していた。お父さんもお母さんも意外と乗り気で、お祖母さんもそうだったけど、自分たちと同じように光子も冒険して、アメリカまで行くんだねなどと、もう行くようなことを言っていた。淋しくなるけど今は飛行機で直ぐに行けるんだし、自分達のことは大丈夫だから考えてみなよと言ってくれた。山形のお父さん、お母さんの言ったことを大家さんに話し、それでは一応こっちから履歴書と写真を送って、向こうから何と言ってくるか待ってみようではないかということになった。
光子はいわゆるお見合い用の写真などなかったし、それよりも自分の好きなことをしている写真をと思って、山に行ったとき撮った写真と英語の履歴書を用意して、三日後に大家さんの家を訪ねた。大家さんはやはりお見合い用の写真のほうがと言ったが、光子の考えをいうと、それもいいね、じゃ、この写真を同僚の方に届けると仰って預かってくれた。それから一ヶ月もすると、シカゴのほうからも履歴書と写真が来たので取りに来るようにと大家さんから連絡があった。
その人は、井上正人と言い、光子と同年だが半年早く生まれていた。郵便局に勤めているお役人さんだった。大家さんからは、これからは自分たちを通さなくてもよいから直接手紙を書くようにと言われた。
手紙を受け取ったことの連絡をする前に、山形のお父さん、お母さん、それに雅歌教授にもそのことを知らせ、写真なども見せたかった。勿論、山形の両親は喜んでくれて、写真結婚と言って若いときの写真を送る人もいるらしいけど、この人の場合はそうじゃないようだし、いいと思うようよ。アメリカに行ってみなよ。自分達も訪ねるよなんてのんきなことを言った。
大学の雅歌教授の部屋を訪ね、写真を見せ、手紙の交換をしようと思うというと、教授は手紙のやり取りというのはいいことですよと仰ってくれた。毎日のことを何の飾りもなく書き合うようにしなさいとアドバイスしてくれた。そしてその日も、教授は結婚生活についていろいろ話してくれた。結婚生活で夫婦が互に理解することは大切なことだけれども、ひとつ間違うと喧嘩になることがある。そんなときアメリカのあのダブルベットというのはいいものですよ。若いときはそのダブルベットに寝て、手足が触れたりし、一夜寝れば「ごめんなさい」などと言わなくても仲直りができるものだ。でも自分達のように年を取るとそうはいかず考えなければならない。夫婦で同じ趣味を持つのが一番いいねなどと話してくれた。教授も、教授の奥さんもそのことを暗黙のうちに実行しているそうだ。奥さんはお茶にはあまり興味がないのにお茶を習ってくれているし、自分も同じで、奥さんのやっている謡など興味がないが、謡の公演を見に行くし、奥さんの出る謡の会にも必ず集積するよう心がけていると仰っていた。
山形の両親も、雅歌教授も淋しくなると言いながら、光子のことを思ってくれてか、手紙の交換をして見なさいと言ってくれた。それで光子は、まず、写真と履歴書を受け取ったこと、これから手紙を書くが、英語の手紙など簡単には書けないので時間がかかることなど、はじめから言い訳を書いたりした。それからは大体二週間に一度の割合で手紙がシカゴと東京の間を往復した。正人からくる手紙にはいつも天気のこと、そして元気に仕事に励んでいると書いてあった。光子もそれを真似て、東京の天気を書いたが、そのあと何を書けばいいのか考えてしまった。教授は毎日のことを何の飾りもなく書きなさいと仰ったけれども、それも難しかった。家族のことをまず書き、それから毎日何をやっているかも少しづつ書いた。向こうからは相変わらず天気のことが詳しく書かれてきた。
手紙をやり取りするのはいいですよと言った教授の言葉が思い出された。同じような文面の手紙を受け取っていると、この人は余り趣味のない、無口な人なのではないかとまず思った。でも光子には何の趣味があるだろうか。読書、山、スキー、お茶などがあるが、山もスキーも一年に二、三度行く程度なのだから趣味と言えるかどうか。読書だって系統だてて読んだりせず、お茶、座禅に関するものは必要に迫られて読み、あとは何でも読みたいものを濫読という程度。でも積読ではなく、買ってきては読んで本箱に本の貯まるのを見るのが好きだった。
正人は、山もスキーもしないらしい。読書はするけど、映画のほうが好き。映画も戦争もの、カーボーイ、歴史ものなど。お茶は全然なんのことか分からない。映画音楽が好きでレコードなど沢山集めているらしかった。音楽ね。光子はオペラやバレーを見たいと思いながらいつも見に行くのは落語とお芝居だった。シカゴには落語もお芝居もないだろう、随分違う生活になるのだななどと考えさせられた。手紙で話し合うとその人となりが大体分かりますと仰った教授の言葉を思い出し、本当にそうだなあと感心した。
光子にアメリカへ行っても大丈夫だよと言ってくれたお父さんが、あっけなく死んでしまった。朝、会社のことをいろいろ見回って、その日の段取りをしたあと、気分が悪いから床を敷いてくれと言って床に入ったのが九時半頃。お母さんは借金取りをはじめ商売関係の人たちとの応対が一段落し、お父さんを見に部屋に行ったときには、お父さんはもう白目をむいていたのが十時半。お医者さんが直ぐに呼ばれ、カンフルを打ったが何の反応もなく、胸を叩きはじめたのをお母さんはもういいですと言って止めてもらったそうだ。それが十一時前後。倒れてから一時間半あったのかどうか。家族はみんなびっくりしたが、お母さんが気強く、その後の始末を全てして、仕事のほうも光子の妹のご主人と一緒にやっていくことになり、光子の出る幕はなにもなかった。お母さんは光子に心配をかけまいとそうやってくれたのだろう。光子に、これからは山司の家も大変になるから、自分のことは自分でやってくれれば、山司のほうは何とかできるからと言ってくれた。
正人と手紙のやり取りをはじめて二年後に、正人のお母さんから手紙が来た。それには光子のことは正人からいろいろ聞いていること、今まで何も言わなかったのは、正人がどう思っているか分からず、変な口出しをしたくなかったからだと書いてあった。そしてもう二年経ったが正人も光子からの手紙を心待ちにしているようだし、将来のことを話し合っていただけないだろうかとの内容だった。
正人のお母さんからの手紙は、綺麗な日本語の字で、内容も素晴らしいものだった。光子は日本語で手紙が書けるのならと、直ぐに返事を書こうとしたが、さて、何と書くべきか、将来を考えると言っても、正人はどう思っているのか。まずは正人に手紙を書き、あなたのお母さんから手紙が来て、将来を考えるようにと言っているがどうしようかと、正人のほうに責任を取ってもらうことにした。そのあと正人のお母さんには手紙を頂いた感謝の手紙を書き、よろしくと挨拶をした。手紙もこうなると行き違いないように言葉の端々に気をつけなければならなかった。
結婚の話は、手紙が来たり、返事を書いたりするときは考えたが、本人が居ないためか実感が沸かなかった。やはり死の問題、罪の問題が心を占める率のほうが高かった。雅歌教授の読書会ではやはり罪の問題がいつも話題になっていた。聖書を読んでも罪の問題がよく書かれている。聖書には罪の一つとして性の問題を大きく取り上げているように思えた。日本人的感覚からは性と罪とは切り離されているように考えられた。同性愛のために牢獄に入れられるようなことはない。また不義姦通も悪いこととはいうが罪とは言わない。かえって愛の賛歌のように心中などをさせて、その愛を貫く美しさを書いたりしている。
光子は、よし、性のことを勉強するため仕事のあとに、三、四時間でもキャバレーなるところに勤めてみようなどと考え、そんなところへ仕事探しに出かけた。二、三のキャバレーに行ってみたが、三十歳に手の届きそうなものを雇うところはなかった。
お茶は光子の大切な心のよりどころの一つになっており、みんなから山司さんはお茶にはまり、お茶を崇拝してるねなどと言われるくらい熱心にお茶をやった。先生の免除を取るにも夢中になり、偏屈先生が許してくださると一週間に二、三度通ったりしていた。
勤めの帰り、あの緩やかな坂を上りお茶の先生の家に急ぐときは、光子の楽しいひと時だった。夏も終わり汗ばむこともなくなったこの頃、こんなときのお茶室は気持ちが引き締まりいつも良いお茶を立てることができた。緩やかな坂を急ぎ足で歩いているとき、「光子、光子」と呼ぶ声がした。名前で呼ばれることはあまりないが、親しい何人かの人たちを思い、辺りを見回したがそれらしい人は見当たらなかった。空耳だな。風もないのにと思いながら、二、三歩行ったときまた聞こえた。左の耳にその声は入ってきた。光子が何か言おうかと思っているうちに、その声ははっきりと、罪というのは、神の言うことに反して小指一本動かしても、動かさなくても罪になるのだと言った。
光子は考えた。今日はお茶は止めよう。今のは何だったのだろう。雅歌先生がいらっしゃればいいが。でもこんなことを話したって分かってもらえるだろうか。あのギョロリの目で見られるかもしれない。じゃ、あの人は、この人はと誰かれのことを思い、今のことを話し聞いてもらいたかった。でもこんなこと誰かに話して、信じてもらえるだろうかと考えると、一人になってこのことを考えてみることが一番のように思えた。緩やかな坂の上にある大学の図書館に行った。
座禅が役に立った。静かに座って、静かに呼吸をして、何時間かじっとしていた。聞こえた声が言った神とは、キリスト教の神だろうか。その神の言うことに反して行動することが罪とは、人は神の奴隷になるのだろうか。何だかもう一つ課題を頂いたようでまたまた考えることが一つ増えてしまった。この罪の問題を解決しなければ、どうも結婚どころではないように思えた。
それからしばらくすると正人から手紙が来て、結婚を前提にして日本に行くから会ってくれと言ってきた。ええ、ちょっと待ってと言いたかった。いつ来るの。でも考えなくちゃいけないね。もう、三年になるものね。手紙のやり取りしはじめてから。光子も三十歳になるのだし、そうだ結婚しようか。アメリカへ行こうか。そんなことを書いて正人に手紙を送った。正人は、その返事に、九月に日本に行くと言って来た。
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雅歌教授の結婚観 と レシピを一つ、続きに書くので読んでくださいね。

愛されている光子

大山先生のレシピ二つ

大山先生の記事を9月25日に書いたが、先生のレシピを載せなかったので二つのレシピを下記する。それらは中華料理にない中華料理。

これは先生がお書きになったフーヨータンのレシピ。写真にしたらよく見えなかった。日本語をスキャンするのは、ちょっと勉強してからでないとできないから、すみません。先生は書道・書画も教えておられた。
10- 15 Rev Oyama 10-15 Rev Oyama - 2

先生のレシピを参考にしてHirokoが作ったものの写真
1.フーヨータン シカゴでは一般にエッグ・フー・ヤンと呼ばれており、日本では芙蓉蟹と呼ばれているものと似ている)
先生のレシピ1、2、3の野菜を煮、汁をとり(この取った汁にコンスターチを入れ、先生のレシピ4参照グレービーを作る)、分量の卵を入れたものができる。レシピ5参照
10-15 Egg FooY - 1
レシピ6 上記のものをフライしているところ
10-15 Egg FooY - 2
先生のレシピにはない。油抜きをするための方法 ー フライ揚がったものを煮立っているお湯に入れて油をとる
10-15 Egg FooY - 3
新聞の上にペーパー・タオルを敷き、その上にお湯からあげたものを載せ、水気と油をとる
10-15 Egg FooY - 4
フーヨータン一枚とグレービー
Hirokoはグレービーにはグリーン・ピーズを入れる。色が綺麗になる
10-15 Egg FooY - 5

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2.シューマイ
  先生がお書きになったものはコピーが綺麗に出ないので載せられない
材料
豚ひき肉 2ポンド
牛ひき肉 1/4ポンド
砂糖と胡椒 少々
グリーンオニオン 1束 細かく切る
ウォーター・チェスナッツ 小1缶 細かく切る
もやし 1ポンド 細かく切る
椎茸 1オンス 砂糖醤油で味付けて煮る 細かく切る
生姜 少々 細かく切る
卵 1ヶ
赤ワイン 少々
約3インチ角のエッグ・ロールの皮 1ポンド
水に溶いたコーンスターチ グレービーと皮をよく閉じるときに使う
作り方
(i)ひき肉に砂糖と胡椒を入れて、よく混ぜ合わせる
(ii)グリーン・オニオン、ウォーター・チェスナッツ、もやし、味付けした椎茸、生姜、卵、赤ワインを
   肉の中に一品づつ入れよく混ぜ合わせる
10-15 Shumai - 1
(iii)肉、その他を混ぜ合わせたものをエッグ・ロールの皮に入れて包む
   (しっかりと肉が見えなくなるように包み、コンスターチを解いたものをつけてよく包む。
    写真のHirokoの包み方は駄目。サンプルにしないこと)
10-15 Shumai - 2
(iv)蒸し器に入れて蒸しているところ(この蒸し器をのせてあるしな鍋はミックが日本に帰るときおいていってくれたもの。サンキュー!)
10-15 Shumai - 3
(v)Hirokoの包み方が駄目な理由。肉をしっかりと包まなかったので、肉がはみ出してしまい、シューマイにはならなかった
10-15 Shumai - 4
Hirokoの家族は肉が好きなので、大山先生のレシピで作ったミート・ボールにグリーン・ピースを飾って美味しく食べてもらった。蒸かしてあるので健康的
10-15 Shumai - 5
ミート・ボールのそばにあるのは豆腐ヌードルで作ったパンセ

愛されている光子

大山義松牧師先生の思い出

大山先生、
2005年10月23日、先生のお孫さんのジュリーの結婚式に先生がいらっしゃらなくて寂しいでした。でも大山先生の長男と次男を見かけ頭が白くなり大山牧師とよく似てきたので嬉しいでした。それでジョーのことを「大山牧師#1」そして次男のデビットのことを「大山牧師#2」と呼びました。するとデビッドが「自分が大山牧師#2と呼ばれるには天国に行かなければならないね。」と言いましたので「えっ、あなたには天国へ行ける確信がないんですか?」と言ってしまいました。その質問に彼は何とも答えませんでした。側にいたその人のお姉さんが「Hirokoの質問に答えてよ。」と迫りましたが、それでも何も答えはありませんでした。それで私は「どのようにしたら天国へ行けるか話したいとき私はいつも用意がありますから、どうぞ連絡してください。」と言っただけで私は良き知らせ(福音)を語りませんでした(ごめんなさい!どうしてあのとき語れなかったのだろう?)でも食事のあと彼が私のところに来て、「Hirokoはパパ(大山牧師)のこと尊敬していたの?」と聞かれました。「はい、私は大山先生から聖書を学ばせていただきました。大山先生との聖書の学びは本当に良かった。今せも大山先生が語ってくれた御言葉が心に残っており、私のその後の聖書の学びに影響しました。」と言いましたら、その話をいろいろ聞きたいと言いました。

そうです。このことがきっかけで大山先生のことを書くことにしました。『先生、どうぞ神様のチエと力をいただけるよう祈ってください。』先生のことを書くことはイエス様のことを書くことになるのですから。先生は本当に主なる神イエス様のことを愛しておられました。先生は詩篇103編を通し、神様が喜んでくださるのなら自分はキリスト者になる、とお思いになりキリスト者になったのですね。先生は讃美歌の514編と285編にあるように弱き者ですが主にすべてを任せ主のために働きたいとおっしゃったこともありました。

まずはじめに、大山先生から導かれてイエス様の子となった人たちのうちで、私はその人たちから直接大山先生から信仰に導かれた経緯を聞いた人たちが何人かいます。まずその人たちのことを書かせてください。大竹氏、草柳夫人、そして村上(旧姓「滝」)牧師夫人の三人です。この三人に共通していることがあります。それは三人とも子供を亡くし、その子供の死をどのように受け止めてよいか思い悩んでいるとき、大山牧師はこの人たちを毎日のように訪ね、その死について話を聞いてくれたそうです。

はじめの人のことですが、この人はキリスト者である叔父を頼ってシカゴに来たひとで、イエス様のことは少しは知っていたようです。この人の子供たちはみな大山牧師の教会に出席したいました。死を迎えた子供は5歳でした。もう一人の人は仏教徒と言っても家代々が仏教徒いうだけであまり仏教のことは知らずお寺にも行っていなかったそうです。キリスト教については何も知らなかったのです。でも不思議なことにこの死を迎える子(10歳くらい)が「僕、この教会に来たい。」と言ったそうです。大山先生の教会はシカゴ市内の北部にあり、この人たちがどこかに出かけるときはいつも教会の前を通っていたそうです。「この教会に来たい」と言い残して死を迎えたこの子はこの教会には来れなかったそうです。その子が死んではじめて教会を訪ねたそうです。この二ご夫妻は小さい子の突然の死にあって呆然となったとき、大山牧師は、主なる神、天のお父様の愛、救い主なるイエス様の考えられないような私たちに対する恵みと慈みについて話をされ、この二人の子供たちが必ず、必ずイエス様の聖手に導かれて天国に言ったであろうことを確信していると言ったそうです。私は未だイエス様を心に迎え入れられる状態ではなかったのですが、娘を大山先生の教会の英語部の方に連れて行っていたのでこの子供たちのお葬儀に出席出るチャンスをいただきました。大山先生が何処の聖書の箇所を引用なさったか覚えていませんが、先生が死を迎えた子供たちがイエス様に手を引かれ天国に連れて行かれる光景を目に見えるように話されたのを今も覚えています。子供たちがしんだら三途の河原で石を積み上げ、お母さんのため、お父さんのためと言って早く死んだことを詫び、親孝行という良い行いになる石を積み上げ極楽に行けるように願う子供たち、そしてその子を極楽にやるまえとして積み上げた石を崩しにくる青鬼、赤鬼の話とは随分違うなあ、と思いながら、大山先生の話される心温まる愛と恵みの話に感動しました。そして大山先生は続けられ、この子供たちはあなた方に誰が本当の神様かを教えているのだからよく考えてください、と言ってお葬儀のお話を終えられました。

他の方の子供は10代も半ばになって亡くなったそうです。その子供が亡くなったとき、その人は「どうして?」「どうして?今から楽しみの多い人生になるのに!?」と子供が死ななければならない理由を探したそうです。仏教徒だったその人のところにお坊さんが尋ねてきてくださり、人にはそれぞれ備えられた運命があり、ある人は10代で死ぬ運命にあること、その子もその運命であったのだから諦めるより仕方がない、といわれたそうです。諦めろと言われても、子供の死を諦めきれないから、どうして、どうして、と考えてしまうと言ってました。そんなとき大山先生の教会から伝道に来ていた人たちが大山先生を送ってくださり、キリスト教の話というものをはじめて聞いたそうです。大山先生はキリスト教には天地創造の天の父なる神、そして子なる神イエス・キリストがいらして、この父なる神は人々を深く愛されご自分の子を十字架に架けて死に渡し、その流された血によって人は聖められ、罪洗われ、聖なる神に会えるようにしてくださったことを話され、そのことを信じ主なる神と交われるようになり天国にも行かれるようになるのだから、イエス様を信じ、あなたの子が天国に行き真の愛の神の聖手の中にあるようにしなさいと言われたそうです。その人はその場でイエス様を信じる祈りをしたといってました。そしてイエス様がどうのように子供たちを愛されたかを、神の言葉である聖書からの学びに心の安らぐのを覚えたそうです。この方と一緒に大山先生のクラスで聖書を学ばせていただきました。子供の命を賭けて主なる神イエス様を信じた信仰は深く、堅固なものでした。そして大山先生からの聖書の手ほどきでまずますその信仰は増し加えられていきました。
大山先生からの聖書研究会で教えられたことで今でも心に残っていること

大山先生の聖書研究会から学んだことを書く前に思ったこと、それは草柳愛子さん(チエ子のお母さん)が今もいてくださったらこの大山先生から学んだ聖書のことを書くにも大いに手助けになったと思います。草柳さんの外にも三、四人の人たちがあの研究会にはいたと思うのですが、草柳さんのことが特に心に残っているのは、草柳さんがこの研究会の学びを休んだころがないこと、そして熱心に学んでおられる証拠にいつも多くの質問をなさり、またみ言葉を生きておられる証をなさっていたことでした。チエ子は、「ママはいつも教会から帰ると大山先生とのこの聖書の学びについて話してくれた。」と言ってます。それである部分はチエ子を通して草柳さんが学んだことも入っていますことを一言加えさせてください。

1. 黙示録I 4章、5章の天国の描写
黙示録の4章、5章を先生がお読みになるときは力を入れ、天国を想像してお読みになるのでしょう。そうやって何回もお読みになりました。この箇所から大山先生は天国の描写を目に見えるようにしてくださいました。先生のこの描写があったから今でも私は主なる神を讃美し褒め称え「天のお父様」と呼びかけると先生のこの天国の描写が浮かんできます。そして神様に近づけるのです。天国は素晴らしいのです。大山先生は、天国が私たち人間の力で考えられる百倍、千倍、いや万倍も素晴らしいところで、私たちはどんなに考えてもその一部分しか見ることができないとおっしゃっていました。私の娘は3、4歳でしたのでその娘を見ながら英語部の礼拝に出るよりも先生の日本語の聖書研究が良いと思い娘も一緒にそこにいました。先生は日本語で話をしていらっしゃいましたが、天国をヘブンと言われたので娘も私たちが天国の話をしているのがわかったのでしょう突然「私はヘブンへは行きたくない。」と言ったのでみんなびっくりしました。大山先生は優しく「どうしだね。」と聞いてくださいました。そしたら「天国にはテレビがないから。」と言いました。先生はそれをまじめに取られて娘に説明してしてくださいました。「天国には百倍も千倍も大きなスクリーンのテレビがあるし、百倍も千倍も面白い番組があるよ、きっと。」とおっしゃいました。この話を思い出し、一ヶ月程前(2005年11月半ば)おかしな伝道をしました。ある人が「天国にはスロットマシンがないから行ってもつまらない。」と言いました。それで私は大山先生の真似をして「天国は百倍も千倍も楽しいスロットマシンがあると思う。」と言ったらその人びっくりしていました。でもこんな話って楽しいではありませんか。天国は素晴らしいところで、イエス様は私たちの涙をぬぐってくださるのだから。その上、栄光に輝く主なる神を思うとき、その栄光がどんなものか大山先生の説明が思い出されます。先生は主なる神の栄光の輝きがあるのだから天国には太陽も、月も、星も、まして人の作った電気などもいらない。神様の栄光の輝きは素晴らしく、心に安らぎと喜びを覚えとおっしゃった。夏は暑すぎるし、冬の太陽もいいけれども、やはり窓から差し込む秋の朝日は素晴らしい。その中に身をおき、その照り輝く光景を眺めているとその素晴らしさ、今日一日何か良いことが起こりそうだと期待に胸が弾みます。そんなとき私はいつも大山先生の言葉を思い出し、天国の神様の栄光はこれよりも百倍も千倍も素晴らしいとしたらどんなだろうと想像してみますがとても私の力ではできません。神様の栄光の輝きを考えてもこうなのだから、イエス様が私たちのために備えて下さると約束してくださったマンションがどんなものなのか想像することなどできません。その天国に今大山先生はいらっしょるのです。和もそこにいます。私はしばしば神様に天国の一部分でいいですから見せてくださいとお願いします。

2. 大山先生との聖書研究で思い出されるのは、先生は役者になりたかっただけあって声色を使い、手のしぐさ一つにしても、顔の表情、それら全てをお使いになって聖書のみ言葉を説明なさってくださいました。
黙示録II 13章16、17節「すべての人々に、その右の手あるいは額に刻印を押させ、この刻印のない者はみな物を買うこともできないようにした。」とのみ言葉を説明なさるとき、先生は、先生のあの広い額をお叩きになって、「ここに刻印が押されるのだよ。ここだよ。」とおっしゃって二本の指を額の真ん中に当ててその指をずうっとずらしていかにもそこに刻印されたようなしぐさをなさるのです。そして「この刻印がないものは誰も物を買えなくなるとみ言葉言っているのだよ。」ととても深刻な声色を使っておっしゃるのです。でも先生は直ぐ今度はまじめな声で「それでもこの刻印を押されない私たちはどんなにか幸せなことか。」と感慨深げにおっしゃいました。その夜家に帰り大山先生のみ言葉の説明とあの額に当てられて指の仕草を思い出しながら食料も買えなくなるとしたらどうやって生きていけるのだろうかと思い巡らしながら祈っていました。神様は私のその思い迷いを取り除いてくださいました。お腹をすかし気力が失せ死を望んだエライジャに、山に行ってそこでやすむようにと言い、そこにもずらを使って食べるものを運んだ話(イザヤ???)を主は私に思い出させてくださいました。そうです。主は40年間マナをもってイスラエルを食べさせました。またイエス様は五つのパンと三匹の魚で五千人の人々を養いあおの余った食べ物は12籠に一杯だったと記されています(マタイ)。額に刻印のない者、そうです、その刻印は獣の名またはその名の数字で666というものです。私は大山先生が「この刻印のない者はなんと幸せなことか。」とおっしゃった意味が分かりました。そのあとも引き続き黙示録の学び続けるうちにますます先生のその言葉が理解できるようになりました。(黙示録14章9-10、16章2、19章20節、20章4節、そして22章1-5を読んでください。大山先生の言葉がますます意味を成してきます。)このようにこの刻印のあるものは主に憎まれるもの、悪魔につく者になります。そしてその最後は聖書に明らかにされています。

3. 創世記からの思い出を書きましょう。創世記を書き始める前にと先生はおっしゃって「内村鑑三先生は創世記の1章1節『はじめに神は天と地とを創造された。』とのみ言葉をお読みになっただけにキリストを救い主なる神として受け入れイエス様の子とされたんだよ。」とおっしゃいました。なんと素晴らしい改心でしょうね。私は感銘してその話をききました。進化論というのは簡単に説明すれば全て「もし」という仮定の上になっている説であって誰が私の先祖は猿だったと思いたいですか、と先生はお聞きになった。考えてみれば誰も私の先祖は猿とは思いたくないです。「神は人間を一番成熟した美しい形にお造りになりエデンの園に置かれた。そして二人は裸でも何とも思わなかった。美しいアダムとイブだったろうね。」とおっしゃり創造の話をはじめられた。神様の創造の話は何も覚えていないのだけれど、先生が創世記には複数形の神様の名が記されていて、ここで既に三位一体の神に言及されているとおっしゃったことを興味深く聞いたのを覚えています。それから先生は難しい進学論の話をされ、そのとき創世記はJ典、E典、P典などがあって、創世記の編集の際にそれらが使われたという話を聞きました。どうしてこんなことを覚えているか分からないのですが、神のみ名をJ典ではヤハウエ、E典ではエローヒームと呼ぶこと、そしてP典はPriestly Code 祭司典の頭文字を使っていることなどを話されましたが、神様に名前があるということが私にはとても興味深かったと思います。先生の想像の話はきっと興味ある話し方をなされたと思うのですが全然覚えていません。創世記で次の先生の話で興味があったのはアダムとイブが罪を犯したとき3章8節に「彼らは、日の涼しい風の吹くころ、園の中に主なる神の歩まれる音を聞いた。そこで、人とその妻とは主なる神の顔を避けて、園の木の間に身を隠した。」との箇所で、先生の話を聞いていると神が歩かれる足音、また衣擦れの音まで聞こえるようにお話になりました。私たちの神様は単に神秘的な神ではなく、私のことを気になさり、私と交わりたいと思っておられ、私が迷っているとそれを見つけるために聖座から立ち上がって私を見つけに来てくださる神様なのです。このことを見えるようにしてくださった大山先生との創世記の学びは素晴らしいものでした。イエス様は九十九匹の羊をおいて一匹の迷える子羊を探しに行かれたし、迷えるものが帰ってくると大喜びして宴会を開いてくださる神様です。天の父なる神の愛、子なる神イエスの恵みと哀れみが私を自由なものとしてくれました。それも大山先生が私たちの神は人格があり、私たちはその神と交わることができ、私たちがする全てのことを理解していてくださると教えてくださったからです。その上、私の神様は私たち一人一人の人生にプランがあり、そのプランが成就するようにと導いていてくださいます。何と素晴らしい、今も生きて私たちに働きかけてくださる唯一の神様です。

4. 創世記のあとはヨハネの福音書10章からです。どうしてこのように飛び飛びで覚えているのでしょうか。これを書くチャンスがあるのなら大山先生から聖書を学んだときの聖書を保管しておくのでした。あの聖書には大山先生からの教えがたくさん書いてあったはずです。私が今書いているのは全部私の記憶からです。ということはこれら先生からの教えは私のクリスチャン生活40年の間にいろいろ私のためになったからです。先生の教えが私のクリスチャン生活を支えていてくれることを思い、先生にここから感謝します。今日の箇所もその一つです。ヨハネ10章1-18節、ここはイエス様の例えた話しの一つです。この箇所は良い羊飼いについてで、先生はこの話の学びの前に詩篇23章をいつものように声色を使い良い羊飼いはどんなに素晴らしいかを分からせてくださいました。「良い羊飼いと私の信じるイエス様は一つなので、イエス様が私の牧者なら私には乏しいことがないのです。」と先生はおっしゃいました。この詩篇23章1節のことばからはじまり、2節は羊飼いは常に私に良かれと思うことをしてくださるのです。即ち緑の草のあるところ、美味しい水のあるところに伴ってくれるのです。そして先生は5節を特にお好きだったようで敵の前で縁を設けてくだり、こうべに油を注ぎその油が顔にそして首にたれてくるのは何といい気持ちだろうとおっしゃりながら、指で顔中、そして首のところを油がたれているようになさったのです。詩篇23編を詳しく説明なさったあと、ヨハネ10章の説明になり良い羊飼いについての話になりました。まず羊の囲いの説明をされ「その囲いにはただ一つの門があるだけで、その門には門番がいて羊飼いは一夜その囲いの中に自分の羊を入れてもらうのです。その囲いの中には他の羊飼いの羊もいて、多くの羊が一緒になって一夜を過ごすのです。」とおっしゃいました。「次の日になると火使いはその門にやって来て自分の羊の名前を一匹、一匹呼ぶのですよ。」とおっしゃって、その部屋で先生から聖書の学びを教えていただいていた一人一人の名前を『愛子さん、Hirokoさん・・・』と羊飼いが羊を呼ぶように呼んでくださいました。今でもそのときの先生の声が耳に残っており、イエス様もきっと天国で私たちの名前をこのようにして読んでくださるだろうと想像することはなんと楽しいことだろうとその状況を想像できるようにしてくださった大山先生に感謝しております。

ここで一つ、主が私の名前をはじめて呼んでくださった経験を書かせてください。私が入った大学はキリスト教系の大学で聖書を学ばせられました。その大学ではじめてキリスト者という人たちに出会いました。その人たちは私がそれまで知っていた人たちとは何か異なった雰囲気をもっており興味本位からその人たちの集会に出席させていただきました。そしてその集会で私は罪人と呼ばれびっくりしました。私は何も法を犯すような罪である殺人、強盗などしてません。少し嘘をつくくらいで何故私は罪人と呼ばれたのでしょうか。罪とは何でしょうかと考え哲学・宗教の本などをたくさん読みました。お寺へ行って座禅もしました。考えれば考えるほど分からず、聖書の中での罪の一つにこの世的の性についてのものがあります。性の罪というのを実験してみようと思い立ち、夜の仕事、ナイトクラブなどで働いてみようとインタビューに出かけて行きました。そんな時のある夕方、一人家路に向かっているとき「Hiroko、Hiroko。罪とは神様に刃向かって指一本動かしても、動かさなくても、それは罪なのだよ。」との声をはっきり耳にしました。このあと13年してイエス様を主なる神、救い主として受けれましたが、そのあとその同じ声を三、四回聞いています。ですから大山先生がイエス様が私たちの名前を呼んでくださるとおっしゃったとき、それは本当だと思いました。

そのあと先生は大切なことをおっしゃいました。「羊飼いが羊の名を呼ぶときは、その羊の性質、特徴、その要求、強みと弱みなどを知ってその一頭、一頭と生きた関係をもっているのだ。そして羊のほうはそのように自分のことを考えてくれ、知っていてくれる羊飼いに何の恐れもなく全てを任せ信頼して囲いから出てついていくのだよ。」とおっしゃいました。大山先生からのこのような教えにもかかわらず私のクリスチャン生活には30余年に渡る暗黒の時がありました。でも10年ほど前デボン教会の牧師先生Pastor CarliniがDeliverance Ministryをはじめたとき私も手伝わせていただき多くの人たちを悪霊から自由にする祈り会をしてきました。そのMinistryにかかわってから私の中の奥深くに悪霊がいるのを見せられ、その悪霊追い出しの祈りをしていただきました。それからは主の愛に満たされ、驚くばかりの恵みと哀れみにどんなにか涙させられたことか分かりません。そのように自由になり主なる神の愛と恵みにより喜びの平安の日々を送れるようになってから、大山先生のこの教え、神から名前を呼ばれた者はイエスを全面的に信頼し、全てを任せ、従っていかなければならない責任があるとの先生のこの教えを身にしみて感じ感謝しております。

最後にもう一つ忘れられないことで、私が詩篇を読むとき助けになっていることは、大山先生はダビデの若いときの神を思う心、そして野山で羊の番をし竪琴を弾きながら神を讃美したことがお好きだったらしく、先生は夜昼なく野山で羊の番をして竪琴を弾いているダビデを絵に描いたようにして話してくれました。その癖がついて詩篇を読むときはそのダビデが思い出され、そのとき、そのときのダビデの心を思い、その思いに自分の思いを重ねて読めるようになったことは詩篇を読む上で本当に助けになりました。大山先生を聖書を学ぶ師としてくださったことを本当に感謝しております。

以上で一応筆を置かせていただきましょう。最後に大山牧師が訳された讃美歌を載せさせていただきます。

He Lives - 主は生く
我は今生けるイエスに仕う
世は知らねども 主は生きたもう
恵みのみてよ強いみ声
呼べば答えて間じかに

(Refrain)
主は生く! イエスわ今も
ともに行き 語る 命の道
主は生く 救わんとて
「いかに生くと知る?」我が心に

主のみ恵みは 世にあまねく
望みわ耐えじ 我が心に
嵐の中も 主わ導き
来たりて迎えん み空に
(Refrain)

喜び歌え 主のみ民よ
大いなるイエスに ハレルヤ アーメン
我らの望み 世の救いは
このイエスのほかまたなし
(Refrain)


愛されている光子

愛されている光子 7.円覚寺 II

横浜にあるスイス系貿易商社に入って二年近くになった。世の中は、東京で行われるオリンピックのことで騒がしかった。土曜日で半ドンなので、光子は円覚寺へ行くことに決めた。同僚達は、三々五々、デートの相手と出かけるもの、映画を見に行くもの、催し物、ショッピングなど、楽しみを見つけて出かけて行った。光子は心の通い合う二、三人と中華街での昼食へと出かけた。
「お給料貰ったばかりだもの、いつものもやしラーメンじゃなくて、チャーシューなどの入ったもの食べようよ。少し綺麗なレストランでね。」
光子の働いているスイス系貿易商社は、桜木町の中華街の近くに事務所があった。お給料近くなると、みんなもやしラーメンを迷路の中にあるあまり綺麗でないレストランで食べた。でもこのもやしラーメン、味は一等一番だった。
その日は少し綺麗なレストランに入り、注文したあと、仕事の上の問題、仕事が大変、辛い、つまらない、ボスが分かってくれないなどと話し合い慰めあった。でも最後にはいつもみんなで反省し、文句を言うよりも一人一人何か建設的なことを考えることにした。その日は高校出たての若い青年が、
「光子姉さんは、円覚寺ですか。今日は」と質問があって座禅の話になった。
「あのね、座禅って話し合て分かるものじゃないと思うんだ。いつか一緒においでよ」と光子は三人を誘った。
「でも、足、痛いんだろうな。」
「黙って数だけを数えるだけなんて時間の浪費みたいでとっても出来ないよ。私は。」
「会社のことが解決できるなら行ってみてもいいか」など勝手なことを言った。
「座禅すると、もしかしたら会社のことも解決できかもしれないよ」と光子。
「へえー。どうやって。」三人とも興味をもって質問した。
「ものの見方が変わるというか。毎日私たちが苦しんで生きているのは何のため。生きる目的というのが分かったら、考え方が変わると思うよ。」
「僕は、その生きる目的というのが知りたいんだよ。」
「私は結婚して、赤ちゃんを産んで、よい家庭を作るのが目的なんだけど、なかなかいい人いないしね。座禅ではそんな人探せないでしょう。」
「東大生、早稲田生が来てるよ。」
「僕の友だちが、人は生まれて一日一日死に向かってる。生きる目的は死だと言ったけど、そんなの悲しいよなあ。」
「この世に生きるということは苦のみですってよ。」
「僕も座禅して、生きる目的とか、光子姉さんのように死んだあとどこに行くのかって考えようかな。本気になって。」
「あんた、今、足が痛いでしょうって言ったじゃない。」
「そうか。そんなに足痛いですか。」
「痛いわね。でもその痛みの中で、眠くなるから不思議よね。」
「山司さんはどこでも、眠るからね。」「わあ!本当、本当」などと大笑いした。
座禅も経験のためやってみるから次に行くとき連れて行ってくれと、若い青年は言った。女性たちは考えてみるというので、年末を座禅堂で過ごし、初日の出を相模湾で見るのもいいよというと、楽しみだけ考えて、そのときは行くなど言った。
光子は昼食のあと円覚寺へ行く電車に乗り、窓の外を過ぎていく木々の葉の色が変わりはじめている景色を見ながら、この景色も四、五年近く見ているなあなどと思い、過ぎ去った月日のことを考えた。
大きなことでは大学の卒業があった。あまり英語の勉強をしなかったが、何とか卒業できた。英語と日本語の教師の資格も取得した。そしてあちこちの学校へ就職運動もした。
そんなとき山形のお母さん、祐天寺の伯母さん、横浜に住んでいるお父さんの友人ご夫妻などから、お見合いの相手の写真が手渡された。お茶の先生で座禅にも興味を持っている人、政治家、画家などいろいろな人がいた。政治家は成功したか、また画家は有名になったとあとで聞いた。
仕事の同僚とのデート、また雅歌老教授の読書会の一人ともデートをした。読書会の一人はクリスチャンで、二、三歳年下だった。相手のお母さんが心配して北海道から出て来られ、会ったとき横浜の中華街でお昼をすることになり電車に乗った。光子は乗り物酔いが激しいので電車に乗るといつも眠ることにしていた。その日も電車の中でぐっすりと眠ってしまった。相手のお母さんはそれを見て考えられたのかもしれない、年上ということで反対された。この方は二、三年あと癌で亡くなったそうだ。
もう一つ、前に下宿していた六本木の大家さんからで、アメリカのシカゴから英語が分かるお嫁さんを探しているのだがどうだろう、写真と履歴書をこちらから送ることになっているのだがと言われていた。
卒業後、先生になるべく運動したが、英語と日本語の先生の資格を取得したといっても、光子には本当にその資格がるのか、疑問だった。英語も日本語も文法に弱く、知っている英語の単語の数が少なく、英語で日常会話をするには不便しなかったが、その発音だって完全ではないことを光子が一番よく知っていた。何校かに面接に行ったが、断られなかったものの保留などとされた。こんな力のない先生に教えられる子供たちのことを思うと責任の重さに怯んでしまった。結婚しても先生をしていける情熱があるのかも分からなかった。雅歌老教授、偏屈先生、円覚寺の老師などのことを思い、光子には到底、この人たちのように人を導く力などない、自分自身がまだまだ迷いの中にいるのだからと、先生になることは諦めた。そして今の会社に勤めはじめ、英語の書類に目を通したり、輸出入の仕事をし、小さな翻訳の仕事などもさせてもらったりしていた。

そんなことを思っているうちに北鎌倉駅に着いた。電車の中で考えごとをしたため眠らなかったので、誰もいない秋の匂いのする静かな円覚寺の本堂の階段に座って、しばらく休むことにした。本堂に行きしばらくすると声をかけられた。見るとお茶で一緒になる女の人が立っていた。この人は座禅に来て長くなるらしいのだが、今まで一緒になることがなかった。お茶ではあまりお喋りができないし、話し合えるチャンスがなかったので階段を下りて行った。
「お茶の先生があなたも座禅にきていると聞いたのですが、今まで会ったことがありませんでしたね」と話はじめられ、光子の知らないことをいろいろ教えてくれた。円覚寺には女人専用の宿舎があり、座禅もできるようになっているとのことだった。その方は朝早くから座禅をさせてもらって今帰るところだと言った。今日は老師が呼んでくださり、会いに行ったことを話され、老師の顔を見ているうちに、「仏の中にどっぷりとつかってます」と言ったそうだ。老師はにっこりと笑ってくださったと言って喜んで帰って行った。
光子はいつもの座禅堂へ行くと、老師が呼んでくださっていると言われた。今度こそ、何か問題がもられるかと期待した。またはあの人のように老師の顔を見ているうちに何か心にひらめくものがあると良いのになあなどとも考えながら座禅をはじめた。
お昼をたくさん食べたので何も食べないで座るつもりだったのに、時間がたくさんあったため北鎌倉の町の中を歩いているうちに美味しそうなお汁粉やさんがあり、入ってしまった。電車の中では考え事をしてしまったし、静かになり、何の音もしない中でじっと座っているうちに眠気に襲われ眠ってしまった。肩をとんとんと叩かれ、びっくりして目を開けると本田さんが立っていた。感謝の気持ちで頭を下げ、教えられたように両手を組み、上体を前に倒し、力を抜き、肩から背中を軽く叩いてもらった。それで眠ることなく座れるだろうと感謝した。
お坊さんが老師のところに行くように言ってくれた。老師は円覚寺の一番奥まった高いところに建てられた建物に住んでおられた。そこまでの坂道と階段を一歩、一歩昇りながら、「仏陀の中にどっぷり」とあの人は言ったが、仏陀の中にどっぷりになってしまったら、自分が無くなってしまうのではないだろうかなどと考えているうちに老師のところに来た。いつ来ても緊張させられる一瞬だった。襖の外で声をかけ、中に入り、三拝九拝の礼をし、老師の前に座った。老師は座禅をしておられるように半眼で仏壇の前に座っておられた。光子はその前に座ったが、何も心に浮かばないし、全然ダメだなあとの思いが駆け巡った。そんな光子の定まらない心が見えるのかも知れなかった。老師は目をぱっと開かれ、一言、「無」と言われた。
「ありがとうございます」と言って、光子は老師の前を下がった。座禅堂に帰りいつものように座り続けた。寝坊することもなく、作務も、朝食も無事終わった。お坊さんから、
「今朝は老師の説話があるので聞いて帰るように。説話は本堂で、一般の人たちも来るから、脇のほうに座って聞くように」との報告があった。みんなで朝食の後片付けをしているうちに時間になり、着替えないままはかま姿で説話を聞きに出かけた。
「般若心経」を一緒に和し、いよいよ老師の説話がはじまった。以下は、そのときの説話から、光子が聞き、心に響いたものの概説である。
「釈迦は、「人生は苦である」、即ち、生きていることは苦しみの連続であると説き、全てのことは「縁」によって起こるとも話された。いかなるものごとも独立して存在するのではなく、それぞれの原因と条件が相互に依存しあって存在している。人生とは本質的には苦であり、その苦の原因を明らかにし、その原因の消滅を心がける。それにはまず煩悩をなくすこと、そして実践(修行)が必要である。じゃ何を実践するか。釈迦は八正道、即ち、「正しいものの見方」「正しい思慮」「正しい努力」「正しい注意力」「正しい精神統一」である。」
正しく生きること、これらを百パーセント、誰が実践できるのだろうか。これでは光子は罪人だと言われていると同じようだった。これらは修行することによって得られるものと老師は仰っている。でもキリスト教の罪は修行では解決できないもののようだった。
説話のあと座禅堂に帰ると、お坊さんがおらず、昼食をして帰るようにとのノートがあった。本田さんはじめ二、三の人たちが残ると言ったので光子も素うどんなどいただけるかななどと期待して残ることにした。
いつもの溜まり場に座って老師の話が良かったこと、でも実践は難しいなどと話し合った。光子は良いチャンスなので、
「死後の世界については、どう考えてるですか」と聞いてみた。
「仏教では基本的には生まれ変わり「輪廻」が説かれているけれども、俺はどうも動物などに生まれ変わりたくないと思っている。死んで直ぐ仏になれる自信はないけどね。」
「釈迦は、そのようなこと、死後の世界とか、霊魂の有無など説明がつかない問題は不可能なこととして退けたと読みましたよ。」
「まあ、死後の世界のことを退けるというよりも、そのことはそれで重要でしょうが、そのことでとやかく言う前に、人がどのように生きるか、即ち今朝の老師の説話に戻ることになる。」などと言われ、結局は死後の世界よりも、いかに生きるかが課題となった。
そんなところにお坊さんが帰って来て、チーズ、レタス、トマト、キュウリなど、お昼のものを買ってきたと言った。お寺でチーズ・サンドイッチとサラダの美味しい昼食をいただいた。そのあと家路についた。

十二月八日は釈迦が開眼された日と言われ、その前の一週間を集中座禅そして励むのだ。通常、朝四時から次の日の朝二時まで、即ち、二十二時間の座禅になる。はじめは座禅場に入りきれないような人数だったが、一人減り、二人減りして最後の頃はいつもの常連に三、四人が加わっただけの人数になった。開眼日の座禅も終わり、家路につきながら、この一週間の集中座禅で何か得たものがあっただろうかと考えた。やり遂げたという満足感はあった。そのほか足の痛み、眠気は勿論だったけど、寒かったこと。男性諸君は寒くないような顔をしていたが、光子は寒さで肺も心臓も凍ってしまったようで。寒さのため顔色も変わり、歯が合わないでカチカチしたこともあって、お坊さんに呼ばれ大丈夫かなどと聞かれた。お坊さんは、胆下に力が入っていないとそうなると言われ、下腹に力を入れて座るようにと注意してくれた。そんなで本当に寒かったとの思いも残った。

この寒さとは反対に、八月には虫干しの行があって、そのときも時間にしては十二月と同じような集中座禅が行われた。このときの座禅は暑かった。半眼にして座っていると汗が目の中に流れて入ったりした。でもさすが鎌倉で木々に囲まれている座禅堂に時折入ってくる風は気持ちを引き締めてくれた。その期間中、虫干し、即ち「宝物風入れ行事」があり、円覚寺のいろいろな重要宝物が虫干しされた。ある年の虫干しに釈迦涅槃の大きな絵が壁一杯にかけられた。その絵を描いた人が誰か、いつ頃のものかなどとみんなは話し合っていたが、光子は仏涅槃図の中の等身大の釈迦が横たわっている姿に釘づけられた。涅槃なのだから、これは釈迦の死のときの様子を描いたものだ。そこに横たわり描かれていた釈迦には死の陰が見えなかった。横たわった釈迦の周りには、十人の弟子たちは勿論、動物たち、そして花々、木々でさえも、釈迦を見守って悲しんでいたが、死を思わせる暗いところのない美しい絵だった。
それを見ていて光子は思い出した。雅歌老教授は比較宗教はいけないと仰っていたが、光子は比べざるを得なかった。それは緩やかな坂道の上にある大学の礼拝堂、雅歌老教授の部屋に掛かっている十字架上のイエスの死を描いた絵だった。イエスの頭には棘のある冠があり血がしたたり落ちているし、肉体のあちこちは鞭で打たれたところの肉が裂け、血が滴り固まっており、両手両足に打ち込まれた釘からも血が流されていた。ここまで酷い死に方ををしなければならないイエスを光子は何と考えてよいのか、迷ってしまった。
光子は、死後のことはともかく、死ぬときには、十字架上のイエスのようにではなく、涅槃の絵の釈迦のように死にたいと思った。死後のことよりも、まず、何のために生きるのかを考えることが先決問題だった。
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お寺で食べたチーズ。サンドイッチとは違う、シカゴのチーズ・サンドイッチのレシピを続きに書きますので見てください。
プロフィール

Tsukasa Hiroko

Author:Tsukasa Hiroko
初めの家は塵でできており、砂の上に建っていました。
四十年前にシカゴで木の家を岩の上に建てさせていただきました。
今はレンガの家が岩の上に建つようにしていただいたようです。
金の家になれる日を望んでいます。

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