FC2ブログ

雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ち付けても、倒れることはない。岩を土台としているからである。

伝記 井上家の人々

井上家の人々 XI  パパとママの死

井上家のパパ(長男の勇さん)とその家族は、日本のハワイ奇襲攻撃によりはじまった第二次世界大戦の間、アメリカ政府による屈辱的待遇の下、アリゾナ、ヒラ第二キャンプ(強制収容所)に入れられ、そこに四年近く住んだ。
大戦が終わり、キャンプ閉鎖の二、三週間前に出て、シカゴに来て、市の南のほうにあった三階建てのアパートメント・ビルを購入し、兄弟たちと住んだ。
戦前はカリフォルニア州オクスナードで両親が宿泊所と雑貨商を営み、パパはママ(正枝さん)と一緒にメキシコ人を使って、レタスとストロベリーの栽培をしていた。農業の経験だけで、何の技術もないパパは、キャンプを出るとき、どんな仕事につけるか随分心配した。キャンプの中で教会に添われ、キリストを受け入れクリスチャンとしての歩みをはじめたばかりのパパだった。子供たちがパパを信頼して楽しそうに遊んでいる姿をみて学び、全ての心配を神に任せることにし、重荷を下ろした。心にかかっていた職も見つかった。これで親子四人生活していかれるようになった。神の助けだったと感謝した。親子が一緒にテープルを囲んで、朝、昼、夜の食事ができるは何とすばらしいことか、自由であることの素晴らしさを味わった。また、ことあるごとに家族が集まって食事をする楽しみは何にも変えられなかった。
感謝祭のターキーはママの得意だった。胃があまり丈夫でなかったママは、ターキーが好きだった。いろいろ工夫して、ターキーのお腹の中などに入れてベークするスタフィンもママ独特のものにした。ソーセージやナッツを入れて味を濃くするレシピもあるが、ママののはブレッドにオニオン、セロリ、パセリ、そしてレバーを細かく切って混ぜるだけのシンプルなもので、日本人の口に合う美味しいものだった。(このターキーの作り方は、岩の上の家のカテゴリー「レサピ」を参照)
パパは引退近くになり、引退後の生活のことが心にかかった。社会保証金だけでは生活するのが困難なことを正人に相談した。いろいろ調べた結果、あと半年も働けばママも社会保障金が全額もらえることが分かり、パパと相談してママの働きやすいところなどを探した。でもママは働きに出たりしたら神経に障るから、働きに出たくないと言った。正人はママのそんな言葉を聞き、パパの引退後のことに関しては無視した。
しかし何年か経ったときパパとママに迫られ、正人はある日、光子に言った。
「パパとママが社会保障金だけでは生活できないと言ってうるさいのだが、一緒に住むことを考えてくれないか。」
「そう。そういえばこの頃、家を購入しようと一生懸命だね。ふーん、そうなんだ。」
「まあ、今すぐじゃなくてもいいけど考えておいて。」
「家を買っても庭の手入れはしないからね。」
「庭の手入れは一緒に住めば、パパがするさ。」
「ああ、そうか。」それでその話は立ち消えになった。
それからも家の購入のことであれこれと喧しかったが、正人も光子もあまり家を買うことに興味がなかった。そのうち正人の同僚の日本人が仕事の帰り一緒になり、その人が持っているアパートに来て住んでくれないだろうかと言われた。アパートを借りてくれる人を選ぶのも大変なんだそうだ。人種差別などで訴えられる恐れもあるとか。そんなことで二階で三寝室のアパートが長い間空いているので見るだけでも見に来てくれと言われ、正人と光子は見に行った。三寝室ならパパとママと一緒に住めるからとの正人の考えだった。随分広々とした造りだった。そしてパパとママを加えて下の娘と五人になるが、良いということだった。
相談した結果、パパとママにその話をした。一軒屋でないことが少々問題らしかった。三寝室あるといっても同じフロアーに一緒に住むのがどうも不安のようだった。正人はちょっと怒ったように、じゃ、考えてまた返事してくれと言って席を立った。何やかやとあったが、アパートを見に行くことになった。正人、パパ、ママと光子の四人で見に行き、あれこれお部屋を見て回ったあと、ここに決めてもよいということになり、正人は大家さんと話をするからとあとに残った。
光子はパパとママと一緒にそこを出てうちに向かった。同じ階に住むのだから食事も一緒にするようになるとすると、働いている光子は、どうしてもママにいろいろお世話になるなあと思い、うまくやっていかなくちゃと考えた。それで帰る途中、
「ママ、今までもいろいろやってもらったけど、これからはもっとやってもらうようになるね。よろしく...」と言った。するとママは、
「今までだって随分やってあげてたよ」と言った。光子はびっくりして次の言葉が出なかった。うちに帰り一人になっていろいろ考えてみた。ママはどうしてあんなことをいったのだろう。一緒に食事をし、私たちの分まで食事の仕度をするようになるのが大変だと言っているのだろうか。それならそれで考えなくちゃと思った。
正人が帰ってきたのでママが言ったことを伝え、どう思うか聞いた。正人はそんなことと言わぬばかりに、面倒くさそうだった。それで光子は正人に、
「食事は一緒にしないからね。時間が違うし、ママは何だか今まで以上にやってもらえないようだから」と言った。正人は、
「一緒じゃなくてもいいよ。食べるものも違うし、食事代のことで話し合う必要もないし、別々のほうがいいだろうよ」と言うことだった。正人がそういうならそれでよし。食事は別々にしようと思った。しかし次の日ママが来て、
「これからの食事のことだけど、正人は早く帰ってくるから、帰ったら直ぐに食事にしてあげるから、光子さん、あなたは一人で食事するようになるね」と言った。光子はまた驚いてしまったが、
「ママ、いいですよ。今までも一杯やってもらってたし、うちの食べる分は仕事から帰って作りますから。食事は別々にしましょう」ときっぱりと断った。
シカゴの日本人社会の中で姑と嫁が一緒に住んだということで取り沙汰された。ある人たちは、同じ階に住んでいながら食事も一緒にしないと噂し合ったり、光子に直接言ったりした人もいた。またママが人々から、どうしているかと聞かれ、迷惑がかからないようにと思うと、気詰まりだなどと応えているのも聞いたことがあった。
何を言われても食事を一緒にしなかったことは、主なる神が導いてくれたミラクルだと思え、正人が賛成してくれたことにも感謝していた。そのようにしてあれこれ不自由はあったが、あまり波風も立たず一緒に生活していた。
そのうちパパが軽いストローク(医者はミニ・ストロークと言った)で倒れ、運転もできなくなり、正人の方に多くのことがかかってきた。
丁度その頃、正人の仕事場がコンピューター化することになり、年齢の多いものは早期引退を奨められた。パパのこともあり、正人は引退して家にいることになった。
そんなとき、今度はママが立ち上がるときつまずいて転び、骨盤を折り手術することになった。手術は成功し、リハビリに行けるようになったが、ママは何もできないで迷惑になる、どうしたらいいのか。死んでしまったほうがいいなどと言って、リハビリの訓練をせず、ベットの中で泣いてばかりいた。
面倒をかけることがそんなに悪いことだろうか。罪の問題で悩んだことのあった光子は、ある日本人に罪とは何かと聞いたことがあった。その人は、人に迷惑をかけることだと答えた。多くの日本人はそう思っているとも言っていた。日本人の一世が、重度のストロークになり、入院して治療を受け、退院できるようになった。娘の家に帰えるその人に、医者は、しばらくは安静にしているようにと言ったが、娘の重荷になる、迷惑をかけると、娘の目を盗んでベットから起きだし、トイレに行き、そこで倒れて死んでしまったというような話を二、三聞いたことがある。面倒をかけることは罪だろうか。人に何かをしてもらって感謝の言葉が言えず、ゴメンナサイと言えず、人の喜びを喜びとすることができず、人のいうことに「はい」ということができないこと、これこそ原罪、自我、誇りではないだろうか。迷惑をかけられないのが罪ではないか。自分のできないこと、間違いを素直に認め、謙虚に人にお願いして生きるとき、平安が、喜びが、出てくるのではないだろうか。
そんなことを思いながら、光子は、ママの隣のベットの人が、骨折ぐらいで娘のところには行かなくても、一人で生活できるようになると言って、頑張ってリハビリをやっているのをみて、
「ママ、隣のベットの人を見て。ママと同じように骨折して骨盤を取り替えたのよ。あの人はリハビリをやって頑張ればまたできるようになると一生懸命やってるでしょう」と励ました。友達のナースは老人なんだから、そんなきついことを言わずに、優しく話すようにと言った。でもそれからママは光子の顔をうかがうようにして、リハビリを励んでくれた。家に帰ったときは休み休みだったが、一人で階段も上がれるようになった。二、三日のうちには買い物をしてあげれば自分で食事も作れるようになれた。
でもその年から、感謝祭にも、クリスマスにも、お正月にもママの料理は食べられなくなった。何もできないで皆に迷惑をかけて申し訳がないなどと言いながらも、孫たちと一緒に楽しく食事をした。
パパの病状が進み、一人でベットから起き上がってトイレにもいかれなくなった。ママは夜中に、パパがベットから起き上がる手助けができないと正人に訴えた。正人はパパと一緒にダイニングのフロアーに寝た。パパは正人の眠っている隙に起きだし、何回も転んだ。頭、手足を打って紫色になったりした。椅子を積み重ねたりして出られないようにすれば、テーブルの下を潜って出たり、椅子の上をよじ登ったりして倒れた。最後には手と手を結んだりしたが、それも解いて一人で歩き回り、倒れた。光子も仕事を三日にして正人を助け、夜パパを看た。パパは動きまわりたがったので、家の中を歩かせたり、外に連れ出したりしたかったが、ママが心配してさせてくれなかった。
そんなとき、ママがまたトイレのタイルの上に倒れ、反対側の骨盤を折った。その手術も成功し、リハビリに行き死にたいなどといわず、一生懸命にリハビリに励んだ。でも今度は少し様子が違うようだった。前のように体が動かないし、疲れが酷く感じるなどと訴えた。医者に相談しても大手術の後だし、年齢も重ねているのだからなどと言い、何もしてくれなかった。たった三年しか経っていないのにと光子は思った。リハビリもやっと終わって家に帰ったが、前とは違い、一人で階段も上がれず、正人が抱えて二階に上がった。料理するのも億劫がり、トイレに行くのがやっとだった。
そして手術後の診断に行き、検査した結果、右側の大腸に癌が見つかった。医者は簡単な手術で取れるから大丈夫と励ましてくれて、手術の予定を立ててくれた。手術の結果、癌は全て摘出したと言って、医者は喜んだ。
しかし三ヶ月あとに、ママは、「光子さん、チョッとここを触ってみて」と言って、右乳の下あたりを押さえた。光子が手を触れると卵大のものがゴロリと手に触れた。正人に直ぐに言い、医者に連れて行った。その結果癌が肝臓に転移していることが分かった。
それからママは痛い、痛いと言って苦しんだ。はじめのうちは痛み止めを飲むと四時間位は眠ってれた。三、四ヶ月経つと痛み止めでは効かなくなり、モルヒネを飲ませるようになった。ママはモルヒネなんか飲むとくせになり、体に悪いからと言って飲んでくれなかった。
そんなとき医者からホスピスナースを使うようにと言われ、正人は電話した。何語を話すナースがいいのかと聞かれた正人は、日本語を話すナースをと言った。これもミラクルだった。シカゴに日本語を話す優しいナースがいて、来てくれた。ママと直接いろいろなことを話してくれたのて、ママも安心してモルヒネも飲むようになった。
ママは弱り、一人で歩くのが危ないようになった。トイレで転んで頭を打ったとかで、病院に連れて行ってくれと言われ、正人はママを連れて行った。打った頭よりも血栓が少なく四パイントも輸血をしてもらい少し元気になった。そして退院するとき、ママはみんなに迷惑をかけられないから家には帰りたくない、ナーシング・ホームに入れてくれと言い張った。しかし医者は許可しなかった。
ホスピス・ナースは、今度病院に行くときは必ず報告してくれるように、今の状態で病院に行けば輸血され、少し元気になるだけなのだからと言った。光子は、ママは病院に行けば、退院したあとはナーシング・ホームに行かれると思っているので病院に行きたいと言い張るのだから、ママに直接言ってくれるように頼んだ。ナースはママに話してくれたので、それからは病院に行くとは言わなくなった。
痛みはますます激しくなり、二時間おきに痛み止めとモルヒネを交互に与えなければならなかった。パパは二時間毎に起きていた。仕事がある光子はあまり手伝ってあげられず、正人は一睡もしない夜が続いた。そんなとき、光子はある人から、
「光子、あんたママが痛みで呼ぶのが聞こえないんだってね。良く寝られるね」などと言われた。こっちの状況を知らないから言えるのだろうけれども、随分酷いことが言えるものだなあと光子は思った。それにママは人に告げ口をするなんてと思い、二人に憎い思いが出るのがどうしようもなかった。
友人のナースが正人の様子を聞き、正人にパパをナーシング・ホームに入れるようにとサジェスチョンしてくれた。正人はパパをナーシング・ホームに入れるのは忍びなかった。パパが夜中に起き出すのはトイレだけじゃなく、ママの痛い、痛いと言って苦しんでいるのが気になり、ママを心配しているのが分かった。口もきけなくなり、足も弱り、十分前のことも覚えていられないようになったのに、ママが痛いと言うのを聞いて心配してのがいじらしかった。しかしママを全面的に看てあげるには、パパをどうしてもナーシング・ホームに入れるしかなかった。正人はやっと決心し、パパをホームに入れた。
ママの痛みはますます激しくなり、今までは光子が作る、チキン・ストックの汁で卵を入れたお粥、それからアプリカット・ブランディーを入れたケーキを美味しいと言って食べてくれていたが、それさえも喉を通らなくなった。
ホスピス・ナースに、もうお風呂にも入れないように、それからトイレにも起こさないように、本人も辛いのだからと言われた。ママは嫌がったが、おしめを使った。
光子はハスピス・ナースに何故こんなに痛がるのかと聞くと、ママのお腹を触らせてくれた。握りこぶし程の石みたいなものがゴロゴロとお腹の中にあった。
その夜のことだった。ママにモルヒネをあげ、何かして欲しいか、聖書でも読んであげようかと聞いたが、ママは今じゃなくていいと言った。薬を飲んでも痛みがどこかにあるのだろう。顔をしかめていた。光子はそんなママを見て、
「ママ、我慢しないで、大声で痛いよと言ってもいいのよ。そしてイエス様にも言ったらいいよ。痛いって。そして痛みを取り除いてくれって言いなよ」と言った。
「光子さん、ママは今朝、そこのドアのところに白い衣を着た人が立っているのを見たんだよ。あれはイエス様だったと思うよ。」
「そう。苦しみ、痛みを我慢しているママを見に来てくれたんだね」と話し合った。ママは少し休むから祈ってくれといった。祈っていると、ママは鼾をかくようにして、深い息をはじめた。光子はびっくりして正人を呼んだ。
丁度そのとき、夕方帰って行ったホスピス・ナースが来てくれた。虫の知らせというか、来たほうが良いと思い、来たのだが、丁度良かったと言って、ママを看てくれた。そして今夜かもしれないというので家族と牧師先生方を呼び、来てもらった。でもママはそのときから昏睡状態になり四日間痛みもなく生き続けた。夜中に痛い、痛いとの声が聞こえず、正人も光子も一晩中寝られるのが不思議だった。
その日、教会から若い人たちがお見舞いに来て、英語で讃美歌を歌い、祈って帰って行った。そのあと光子は日本語でママの好きな聖書の箇所を読み、賛美歌を歌い祈った。ママは光子の祈ったことが分かったのか、手を少し動かし、口をもぐもぐさせた。光子は、ママがパパのことを言っているのが分かったので、昏睡状態のママに、
「パパのことなら心配しないで、安心していいよ。できるだけのことをしてあげるからね。約束するよ」と言った。ママは安心したのか、手を元に戻し、静かになった。光子は夕食の支度のためキッチンに立ち、正人が交代した。
しばらくすると、正人の大きな声が聞こえた。
「早く、早く。今だよ。今だ。」光子は急いでママのところに言った。正人は、
「ママの目から涙がすーーーっと流れたんだよ。そしてサンキュー、サンキュウーと言っているようだったよ」と言った。ママは正人に見守られてイエスのいる天国へ行った。癌と診断されてから約一年経っていた。
そのあと半年して、パパも寝ているうちに、イエスも、ママも、そして教会の多くの友人のいる天国へと旅立って行った。

2009年最後のブログが、井上家最後の話になった。ママの好きだったアプリカット・ブランディー・ケーキのレシピを続きに書きますのでご覧ください。
スポンサーサイト



伝記 井上家の人々

井上家の人々-X.日系人強制収容所からシカゴへ

井上家の人々は、第二次大戦前、カリフォルニア州オクスナード市に住んでいた。お祖父さんとお祖母さんは、一階が店となっているところで日用品、雑貨、食料品を売っており、宿屋もしていた。パパ(長男の勇さん)はレタスとストロベリーを栽培し、平凡に、家族一緒に過ごしていた。お祖父さんとお祖母さんの若いときを思えば、今の平安な暮らしは夢のようだった。
しかし1940年ごろになったとき、日本がアメリカと戦争を起こすらしいとの噂が流れ、日本人の中にいろいろな情報が流れ、人々は動揺し始めた。
その悪いニュースは、井上家にも届き、特にお祖父さんとお祖母さんの心を苦しめた。若いとき日本からメキシコに行き、苦しみ多かった生活のあと、やっとやってきた家族共々のこの平凡でも平和な生活。四人の孫も与えられ、これで一生ここで家族に囲まれ終われるだろうと思っていた矢先のこと。この家族との生活か、日本の親族そして天皇陛下か、二つに一つを選ばなければならないことになってしまった。この選択の苦しさは、若いときにした苦しみ以上の心の苦しみと悲しみだった。お祖父さんとお祖母さんは、日本の家族や天皇陛下には弓を引けないと、日本に帰る決心をした。そして日本行き最後の船にやっと乗れることが決まり、日本に帰って行った。
パパは日本に帰るお祖父さんに、目の前にレタスとストロベリーの収穫があったので全ての貯金を持たせてやった。パパの弟妹たちもできるかけのことをして、お祖父さん、お祖母さんを送り出した。
1941年12月7日、日本のハワイ奇襲攻撃で日米戦争は始まった。日本人、日系人たちは、予想はしていたものの、その始まりには驚き、怒りさえ感じ、これからどうなるのかと恐れた。
その恐れが現実となり、大統領令No.9066により、西海岸居住の日本人、日系アメリカ人は、すべて日系人強制収容所(キャンプ)に入れられることになった。因みに、英語ではこのキャンプのことを“Relocation Center”と呼び、日本人、日系人を災いから守る一時の居住地と言った。しかしキャンプには鉄条網が張り巡らされ、銃をもった兵隊が24時間中、キャンプのあちこちに建てられたタワーから見守っており、出入り口に近づいたり、鉄条網に近づいたりすると射撃された。二年くらいは、出入りの自由は全くなかった。日系人強制収容所と呼ぶのが当たり前だとパパは思っていた。
そんなことで、パパは予定していた収入源であるレタスとストロベリーを二束三文で手放さなければならなかった。預金もないまま、キャンプに入ったのである。キャンプへ行くといっても、乗った汽車の窓には黒いカーテンが惹かれており、殺されるのだとの暗い噂がながれ、恐れを感じてキャンプ入りした。
そのキャンプでの生活も四年近くになり、自由に出入りもできず獄やにいるような状態だったのが、政府が各地にある合計9つののRelocation Centersの維持が経済的に負担となり、キャンプを出てもよいと言い始めた。強制的に入れておきながら都合が悪くなると出てもよいなどとの政府のやり方に、パパは憤りを感じた。しかし自由になれることの喜びが強く、パパの妹さん夫婦は若かったこともあり、早くにキャンプを出て行った。モンタナのほうに農家の仕事があるとのことで、そこに行った。
キャンプを出てもよいと言われても、喜んでばかりはいられなかった。キャンプでは粗末なところでも住居があり、家族で一緒の食事など考えられなかったが、まず衣食住は与えられていたのである。その上、食堂などで働くと賃金が与えらた。パパもそこで働いていた。パパはその食堂で起こったことを考え、差別とは何と悲しいことかと思った。それは日本国籍の人は働かせてもらえなかった。一人の日本国籍の婦人が、料理が上手で日本食を美味しく作って食べさせてくれていたが、日本国籍というだけで食堂から追い出されたんだから。その人の娘が、ママはこのキャンプでは好きな料理もできず、退屈で死にそうなので賃金などいらないから働かせてくると言ったのに、追い出されたんだったな。あれは差別だと思うなあなどと食堂の人たちと話し合ったりした。
その食堂もそろそろなくなるらしかった。パパは、キャンプを出てからどうすればよいのか。仕事をして家族を養っていかなければならないのだ。貯金など殆どなく、仕事をすると言っても、今まではレタスとストロベリーの栽培をしていただけで、何の技術もあるわけではなく、学歴だって日本で小学校を卒業し、アメリカに来てから高校に通ったのだが、英語が分からず、やっと卒業させてもったようなものだった。数学が良い成績だったので学校のほうでも、それを認めてくれたのだろう。
あれこれと考え、心を惑わして、恐れているうちに月日はどんどん過ぎて行き、とうとう8月15日にを迎えた。その日、第二次大戦が終わったのだ。それは日本が敗戦を迎えた日だった。日本で子供のころを過ごしたパパとママにとっては、戦争が終わってほっとしたものの、日本が戦いに負けたとは悲しい知らせだった。今まで負けたことがなかった日(ヒ)の本(モト)の国。とても複雑な気持ちだった。考えてみれば、パパは自分もアメリカ国の兵役に服すべく入隊したのだ。何と日本に矢を放すつもりだったのだろうか。考えていると恐ろしくなった。背が小さく、体の小さいパパには合う軍服もなく、年齢も30歳を過ぎていたためだろう、直ぐに帰されたのでよかった。パパは心を過ぎ去るこれらの思いを頭を振って、取り除く努力をした。考えてもしょうのないことだった。
パパは、子供たちの声に、突然現実に引き戻された。
「パパ、デックおじさんが呼んでるよ。」
「デックおじさんのところに、今すぐ来てって。」
「デックおじさんのバラックに行くんだね。」
「そうだよ」と言って、二人はまた外に出て行った。
元気に飛び回って、遊んでいるこの二人の子供を見て、パパは考えた。最近、友人の誘いで通いまじめた教会で、全てのことをイエスに任せて平安に過ごしなさいということを聞いた。このキャンプを出て、どこへ行けば良いのか。どうすればよいのか。日本の負けたことでも心が痛いし。これらを全て任せるのと平安がくるのか。パパは、そんなことは自分にはとてもできないことだ。神に任せて、自分はどうすればいいのだ。考えて、計画して、行く先を決めなければ何も決まらないじゃないか。神に任せたら、神は電話でもしてくれるというのか。何もしないで、考えないで、じっとしているだけなのか。分からない。ただ何もしないでいるなんて。でも今の子供たちの様子を見ていると、あれが全てを任せるということなのかもしれない。あの子たちはこれから何が起こるか分からないのに、パパがいるからと安心しているのだろう。楽しんでいる。牧師がいうように、あのようにイエスに任せられると平安に過ごせ、恐れも、心配もなくなるのだろうか。
やれやれまたいろいろと心を騒がせてしまった。デックのところに行かなければ。デックはパパの直ぐ下の弟だった。何の話があるのだろうかと思いながら、
「ママ、デックさんのところに行くよ。何か話があるらしいんだ。」
「何の話だろうね。きっとキャンプを出る相談だね」とママが言いながら、帽子を出してくれた。パパはその帽子をかぶってデックのバラックへと向かった。
「ハロー、デック。」
「勇さん、今いろいろ考えていたんだよ。暑いけどお茶はいつでも美味しいよ。一杯どうだね。」
「うん。頂くよ。」パパは暑いお茶を貰ってフーフーしながら少しづつすすった。
「本当に、美味しいお茶だなあ。」
「そうりゃ、よかった。ところでね。このキャンプが9月24日に閉鎖されるらしいという話は聞いただろう。」
「ちょっと、そんなことを聞いたなあ。あと一ヶ月ないじゃないか。」
「それなんだよ。それであちこち話を聞いてると、シカゴにはいろいろな仕事があるらしいとのことなんだよ。どう思うかね。」
「どう思うと言われても、どんな仕事があるかわからないが、仕事があるならそこが一番だろうなあ。」
「でもシカゴはギャングの街で、酷く寒いらしいんだよ。」
「ギャングの町といっても自分達には関係ないと思うけどね。でも寒いのはどうかね。」
「勇さんは寒いのが苦手かね。」
「いや、わしは大丈夫だけどね。子供たちとママなんだよ。」
「うん、正枝さんは体が弱いからね。じゃ、考えてみるかい。」
「でも、仕事があるところなら、それがなんといっても一番大事だからな。」
「うちのもそういってるよ。うちは女の子だから寒さがちょっと可哀そうだけど、子供は親がいるところなら、どこでも大丈夫なのだよ。」
「それさな。今、自分も子供たちを見て考えてたんだよ。将来何が起こるか分からないのに真っ黒になって元気に遊んでるから。」
「子供たちは大丈夫だよ。でも勇さん、正枝さんには相談したほうがいいなあ。正枝さんに話したあと、また相談しようじゃないか。」
「そうしてくれるか。ママには言ったほうがいいからなあ。」
「じゃあ、そうして。またあとで話し合おう。」
「それじゃ、なるべく早く、直ぐに戻ってくるから」と、パパはデックさんのバラックを出て、暑い中、自分のバラックに戻りながらまたいろいろと考えた。
仕事があるということが何よりも一番の問題だと思うから、寒さなどどうこう言っていられないさ。ママも大丈夫だろう。二世部隊で活躍し、最高勲章パーパル・ハートを貰い、勇敢な兵士達と歓迎された者たちも、軍服を脱げば一介の日系アメリカ人になってしまい、その若者達が仕事を探しに行き、日系人として差別され、ジャップと呼ばれ、仕事ももらえないという噂も流れてきていた。また妹たち夫婦も、農家の手伝いの仕事があるからと、早々にキャンプを出て行ったが、やはり日系人と言われて差別され、契約の実行がされず、酷い待遇をうけている様子を知らせてきていた。
デックさんもパパも子供たちを伴って、このキャンプを出て行く将来に、少なからず不安を持っていた。家族が雨露をしのげる家、食べるもの、衣服などを手にして生活していかなければならないのだから、どんな仕事でも仕事がありさえすれば、寒さなどと言っていられないと考えながら歩いていた。
バラックに帰り、パパは、デックさんの話をした。案の定、ママは寒いところということに少し問題を感じたらしかった。ここ暑い砂漠から、これから冬になろうとしている時期に、そんな寒い街に行って、仕事もないのだし、どうやってしのげるだろうかと心配し出した。ママが一度心配すると、その心配は止らなく、雪が坂を転がって雪を加えて膨れていくように、大きな心配となるのだった。それはママの一つの病気と、パパはいつもは気に留めないようにしていたが、今日は少し違うと考え、ママの心配が膨れないうちにと、デックさんが言っていた仕事があるとの話を強調した。
ママは、仕事があるということは本当に重要なことだねと考えを変え始めてくれた。パパは、良い仕事がもらえるように希望をもって、寒くても生活していけるように願って、デックさんたちが提案しているシカゴに一緒に行こうと促した。ママもやっとそのことを理解し、デックさんたちも一緒なのは心強いと、やっと相談がまとまった。
パパは、早速デックさんたちのバラックへまた出かけた。早くしないと良い仕事がなくなってしまうかのような錯覚に襲われ、一刻も早くシカゴに行く相談をしたかった。急ぎ足でデックさんのバラックに行き、ママがやっとO.K.してくれたことを告げた。デックさんも、ママが納得したことを喜び、これからどうすかと相談した。
一日も早く汽車の切符を購入すること、シカゴに着いたらどうするかなども話し合った。デックさんは、シカゴに出て行って下見をしてきた人と話をしていた。まずアップタウンという街に宿を見つけること、そのあとのことはまた相談することにして、まずは切符の手配から、そして家では荷物のまとめをはじめ、いつでも出られるようにする準備しようということになった。パパは一応キャンプの主な人たち、また米軍の人たちにも、キャンプを出ることを知らせ、スムースに出られるように取り計らうことを約束した。
いよいよキャンプを出るのだ。これからどうなるのか、賽は振られ決まったのだ。今ここで何やかやと心配してもしょうのないことは分かっている。子供たちのように神のみ手に将来のことを委ねてみようなどと考えながらバラックに帰った。
ママは心配を顔一杯し現し待っていた。そのママに、パパは明るく、
「さあ、大変だ。荷物をまとめなくてはならないよ」と言った。
「そう、シカゴに行くことに決めたんだね。良い仕事が見つかるといいね」と言いながらバラックの中を見回し、
「スーツケース一個づつ持ってここに来たのに、三年半経つうちにあれこれと増えてしまったね。」と言った。
「三年半も経てば子供たちの背も伸びたし、軍隊に行って着られない服も貰ってきたし、いろいろ貯まったね。」
「でも家具も、一切の家財道具も私たちのものじゃないし、持って行くものをまとめるのは簡単だよ。」
「住めば都とは良く言ったね。こんなところでも、いざ出るとなると気になるね。」
「パパがいろいろ作ってくれたので住みよくなったからね。本当に住めば都だね。それでいつここを出るの。」
「デックさんが切符の手配をしてくれるとのことで、切符が手に入ったら知らせてくれる筈だから、いつになるか今は分からないよ」とパパは言って、バラックのいつもの座る場所に座り感慨深くあたりをもう一度見回した。

「パパ、この汽車には窓があるよ。外が見えるよ。」
「パパ、黒いカーテンのない汽車だね。シカゴにはいつ着くの。」
子供たちはここに来るときに乗った汽車を忘れられないのだなあ。あのときの汽車の中は異様な雰囲気だったから。この光に輝く明るい汽車の中は、これから行くシカゴに夢を託したくなるような気持ちにを起こさせ、いつシカゴに着くのか待ち通しかった。
その輝かしい汽車でシカゴにつき、人々が駅の中をあちこちしているのを見て、自分達は、自分の足で立ち、歩み、自分の思うところに行き、生活を立てていくのだ。これが自由なのだろう。自由であることは何と自分というものを行かせるものか。パパはその自由の気持ちを満喫した。これからはどんなことがあっても獄やの生活はしたくない、子供たちとこの自由であることの大切さをじっくり話し合おう。
アップタウンにある宿に落ち着いたが、一部屋の狭いところだった。そこに二家族、8人が宿ることになった。そんなところでも、ママは、そこで何年振りに家族だけのために料理ができることを喜んだ。ストーブなどなかったが、エレクトリックの鍋を買ってきて、それで作れる料理をあれこれ考えて作り、家族だけが顔を合わせて食べたご飯は美味しかった。座るところもなく、フロアに座って食べたのに、みんなであれこれと家族のことを心配したり、将来ことを話したりしながら、美味しい食事を楽しんだ。
リックさんとパパは、家を探し、職を求めてあちこちと毎日歩き回った。そしてとうとう三階建てのビルを見つけ、一階にデックさんの家族、二階にパパの家族、そして三階は軍隊から出て帰ってきたら住めるようにと、マイケルさんとジェームスさんのために用意した。そんなことでアップタウンの宿には2週間いて、自分達の家へと入ることができた。
そのあとパパはミネソタ・マイニング製作所(3M)の前身であるリビエラ・カメラという会社に職を得て働き、家族を養っていくことができた。
パパはイエス・キリストを信じるようになって間がなかったが、神に全てを任せるということを学ばせてもらったこの経験を大切にした。
---------------------------------------
カルア・ピッグのレシピを続きに載せたので、見てください。そしてコメントもお願いね。

伝記 井上家の人々

井上家の人々 - IX. 日系人部隊

井上家の孫、正人と三年間文通をしたあと、正人が日本に来て光子に結婚を申し込んだ。光子の入った大学でキリスト教概論を教える教授、あだ名を雅歌教授に相談し、神のご意志でしょうと言われ、クリスチャンでもないのに神のご意志で結婚できるのは神秘的だなあなどと考え、結婚した。そのあと正人の広島のお祖父さんが死を迎えるのを看取り、真冬にシカゴへと旅立って来た。
シカゴへ来て直ぐに、親戚、友人に紹介された。その人たちと食事を共にしたとき、聞きなれない言葉、「キャンプ」とか「442」の話を聞いた。
光子は正人に、これらの言葉について説明してもらった。正人はキャンプに入ったが、そのときの記憶はあまりなかった。キャンプでの出来事は、あとになってパパやママからいろいろ聞かされた。(キャンプのことは、同ブログの小説「井上家の人々・VIII強制収容所」に書いたのでご覧ください。)
正人の伯父さんたち、即ちお祖父さんとお祖母さんの三男(マイケル)と四男(ジェームス)は442(442nd Regimental Combat Team/第442戦闘連隊)に入隊し、イタリア、フランスで戦ったとのことだった。
光子は家族ともども、その伯父さんたちをジョージア州アトランタ市に尋ねたことがあった。伯父さんたちは、そこでChick’s Sexing(ひよこの性の識別)の仕事をしていた。光子は伯父さんたちに442のことについて聞いてみた。ジェームス伯父さんは。マイケル伯父さんが死んだとばかり思っていたのに、ニースの街の中で突然会って、びっくりしたという話をしてくれた。いつかマイケル伯父さんから442の話を聞きたいものだと思っていた。

光子は、シカゴにある定住者会(Japanese American Service Committeeシカゴに住む日系人達の世話をし、いろいろな働きをしていた)にシカゴ市から派遣という形で働いたことがある。
JASCには、引退した日系一世の人たちが多く来ていた。その人たちと話しをするチャンスがあった。日系一世は、日本から夢見てアメリカに移民してきて、安い賃金で文句も言わず、一生懸命、朝早くから夜遅くまで働いたのだ。
「私たちは本当に良く働いたなあ、安い賃金で。今では考えも及ばないかもしれないが、一時間25セント、一日の終りに2ドルから3ドル貰えたかなあ。」
「考えられないことですね。」
「そうだろう。雇用主たちは喜んで、日本人、日本人と言って雇ってくれたよ。」
「そんなことで日本人バッシがあったんですか。」
「そうだったな。黒人、メキシコ人、そして白人の労働者たちは仕事がないと言って市長や州長に文句を言った人たちもいたらしいね。」
昔を思い出しながら考えていたが、
「そんなことも、日本人だけを強制収容所に入れるきっかけになったらしいね。」
「一生懸命に働く人を偏見するんですか。おかしいですね。自分達も負けないで一生懸命働く気にならなかったのですか。」
「どんなに働いても日本人の働きには追いつけなかったよ。あの人たちは怠け者だからね」と言って、笑っていた。
言葉も分からず一生懸命に働き続けたこの人たちに、引退のときだよと言っても、家でじっとしていることができなかった人が多くいた。
JASCはそんな一世のために手芸をはじめ、日本の芸術、そして日帰り旅行などもプランして遊ぶことを教えたりした。ソーシャル・クラブの課で、光子はその課で働いた。
それからワークショップがあった。働きたい一世の人たちが集まって来たので、外から内職を持ってきて、皆で一緒に働けるようにした。外部の会社と内職の交渉をしたり、一世の人たちの面倒をみたりする部長さんがいた。光子はこの部長さんとは何かと話し合わなければならないことがあった。
ある日、この部長さんとお昼の時間が一緒になり、同じテーブルで昼食をした。そのときこの部長さんは光子に第二次大戦のときのことを話ししてくれた。
「君は第二次大戦のときは、まだ子供だったね。」
「小学校の三、四年でした。」
「そう。何処にいたの。」
「東京で生まれたんですが、学童疎開に行かなければならず、母方のお祖母さんが来て北海道に連れて行かれました。家族と離れて。」
「そう。あなたも戦争の痛みを少しは知っているんだね。」
「日系二世の人たちが442部隊で、敵のドイツ軍だけでなく、人種偏見という敵とも戦うため、死をもってアメリカへの忠誠を誓い、従軍していったことに比べれば何でもありませんけれども。」
「そう。442ね。あの連隊は華々しい活躍をして、死傷者最高数、Purple Heart受賞者最高数でPurple Heart Battalionなどを愛称名をつけれたりしたね。」
「部長さんもその連隊に入って、戦ったんですか。」
「いや、わしは日本語が少しできたので、日本との国交が悪くなり始めたとき、戦いがはじまらない前に、日本語の勉強のため軍に入れられたんだよ。」
「ええ、どうして日本語の勉強。」
「日系二世は、日米開戦になったらアジアには行きたくないと思っていたね。日本人と戦うなって。日本人に銃をむけるなって...できないよなあ。」と昔を思うようにじっと天井を見ていた。光子もだまってその部長さんの顔を見ていた。
「それがね。アジアに行きたくないと思っていたのにアジアに送られたんだよ。日本語を習った二世は、戦いになったら諜報部に所属し、諜報活動、文書活動、捕虜尋問など、日本語でできることは沢山あったからね。」
「どこへ行ったんですか。」
「太平洋の島々に送られたんだよ。わしのしなければならないことは、日本人捕虜を尋門することだったんだよ。」
「そうですか。大変でしたね。」
「大変ね。あのときの辛さは、あそこで働いた人でなければ分からないね。わしは自分は誰なのか、分からなくなってしまったからね。」
「...」光子は何も言えず、黙っていた。
「日本人捕虜は、アメリカの連隊で働いている日本人の顔をし、日本語を話しはするが、おまえたちには日本人の心が分かってたまるかって言われたね。日本人は捕虜になることを恥と思っていたから、その人たちの心を開かせるのは大変だったよ。」一息入れて、
「反対に、アメリカの将校達からは、おまえは日本人の肩をもっているのではないか。本当のことを通訳しているかって、疑われたりしたからね」と悲しそうな顔をしていた。
この部長さんは、このような状況下で日々を送り、自分のアイデンティテーをなくしてしまったのではないだろうか。この部長さんも第二次大戦の犠牲者なのだと思った。
その後しばらくして、この部長さんは引退してハワイで暮らすことができることを喜んで、JASCを辞して行った。

孫が生まれる喜びのシャワーに、光子は招かれて行ったときのことである。キッチンにお茶を貰いにいったら、そこにご主人が一人ぼんやりと座っておられ、奥さんは忙しそうにキッチンの中で働いていた。お茶をいただき、
「おめでとうございます。お孫さん、何人目ですか」と挨拶すると、ご主人は、
「いや、いや、久しぶりですね。ありがとう。まあ、お座りなさい」と言われた。
自分だけお茶を飲むのも変なので、何か飲み物持って来ましょうかと聞くと、奥さんがお使い立てして済みませんが、そこのコーヒーを入れてやってくださいとのことで、コーヒーを入れ、テーブルに持って行った。光子はそこに腰掛けてご主人の話を聞くことにした。奥さんは、すみませんね、主人は話を聞いてくれる人がいて幸せですよと笑っていた。
そのうち強制収容所の話になった。アメリカの歴史上、あれは最大の汚点だ。アメリカの国籍を有するものたちを罪のないのに、あんな鉄条網があり、銃を持った兵隊が見張りに立っているようなところに入れてと、怒った声を出した。
また日本人のある協会のことをも、アメリカに協力したとして、同じ日本人でありながらいがみ合い、互に陥れ合ったりしたのだと言って悲しんでいた。その協会は、強制収容所に入れられた二世たちと話し合い、二世部隊を作ることを考慮した。日系アメリカ二世たちは、アメリカの国籍を持っていても、真珠湾攻撃後は「敵性外国人」とされ、兵役資格を取り消されていた。しかし自分達はアメリカ人であることを証明したいと、その協会ともども運動した。その結果、収容所から二世の志願兵を募り、日系人部隊を作ることを決め、陸軍省に要請したが却下され続けていた。それも1943年1月28日に聞き届けられたが、忠誠登録という質問状が配られ、答えさせられた。
因みに、この忠誠登録の中の二項目は酷いものだった。この質問のため、収容所の中は混乱に陥った。この二つの質問は、アメリカ国家にとって、アメリカ人を強制収容するという汚名の上に、更に汚名を重ねた。
その二つの質問状の原文と光子による要約
27. Are you willing to serve in the Armed Forces of the United States on combat duty, wherever ordered?
質問27 あなたは米国軍兵士として従軍し、命令されればどこの任地へでも行く覚悟がありますか。
28. Will you swear unqualified allegiance to the United States of America and faithfully defend the United States from any or all attack by foreign or domestic forces, and forswear any of allegiance or obedience to the Japanese emperor, or any foreign government, power, or organization.
質問28 あなたは、アメリカ合衆国に無条件で忠誠を誓い、外国または国内からのいかなる攻撃に対しても、この国を忠実に守りりますか。その上、日本国天皇、またいかなる外国政府、権力、組織への忠誠や恭順することを否認しますか。
光子は、この忠誠登録のことなど思い出しながら、きっとこの人は、混乱したキャンプ、そして親子関係、友人関係などを思い出しているだろうかと思った。
「佐藤さん、あなたもイタリアなどで戦われたのですか。」
「いや、わしは軍隊には入らなかった。」
「そうでしたか。何故ですか。何故、志願なさらなかったのですか。」
佐藤さんは黙ってしまった。30秒、1分と沈黙のときが流れた。声のない時間が過ぎっていった。光子は聞いてはいけないことを聞いたのだろうと思うと、なおさら声が出せなくなってしまい、黙っていた。と突然、
「わしはそのことについて話したくない」との返事があった。
それで光子は話題を変え、今度の日曜日子供たちによる礼拝があって、佐藤さんの大きなお孫さんたちも歌ったりするから教会にいらしてくださいと誘ったりした。そのあとしばらく取りとめもないことを話し、佐藤さんの話をきいたりした。
佐藤さんも、また、日米戦争という中で苦しみを味わった一人なのだ。戦争後の何十年の間、佐藤さんの心に去来したものは何だったのだろうか。憤り、悲しみ、苦しみ、憎しみ、そして恥もあっただろうか。
佐藤さんはリインカーネーション(輪廻)を信じているとのことで、サルが長い、長い年月をかけて人間になったように、いつか自分も何かに生まれ変わり、また生まれ変わり、最後には再び人間に生まれ変わるだろうと言った。佐藤さんはどんな人間に生まれ変わるとは言ってなかったが、きっと心に悲しみも、苦しみも、憤りも、恥もない人に生まれ変われると思っているのだろう。
涙をぬぐってくださる天国に佐藤さんが行かれるように。聖霊が働きかけ、佐藤さんの目を開き、愛に満ちたイエスを受け入れることができるように、祈るばかりだ。

442部隊で活躍したらしいマイケル伯父さんのことだけど、これまで何回伯父さんに会うチャンスがあっただろう。シカゴで、ジョージアの伯父さんの家で、最近は442部隊のリユニオンがラスベガスで行われていたので、そこにも三度ほど訪ねた。その度に光子は伯父さんに442部隊でのことを聞いたが伯父さんは何も言わなかった。
ところが三度目にラスベガスで一緒に昼食をしたときのことだった。光子は伯父さんたちに、
「442部隊のリユニオンでは何をするんですか。」
すると、いつもはジェームスさんが面白おかしく上手な日本語で答えてくれるのだが、その日は、ジェームスさんが口を開く前にマイケル伯父さんが、
「あの戦いは凄かったよ」と光子の顔を見ながらぽっつりと言った。みんな黙って次の言葉を待った。でもマイケル伯父さんは何も言わなかった。
「伯父さん、凄いって、どんなだったんですか。」
「うん。今さっきまで側にいて話していた友達が、次の瞬間には死ぬんだよ。」
「そうですか。」光子は何かいうのが恐ろしいようだった。
「あんなに沢山いた人が半分以上、死んだり、傷ついたりしたんだ。その傷ついて倒れている友達をおいて前進しなければならないんだよ。終わってからその場所を見に行ったけどね。」
ジェームス伯父さんが、
「テキサス大隊の211名を救出するために、442部隊では約800名が死傷したんだよ。」
「井上という名前の人たちも沢山いたよ。自分はどうして死ななかったのか。傷つかなかったのか。怖くて隠れていたのかもしれない。あのとき自分は死ぬべきだったんだ。あの戦いは凄い戦いだった」とマイケル伯父さんは言って、昼食を食べ始めた。
皆は一時何ごとが起こったのか分からない感覚だった。マイケル伯父さんを慰める言葉などなかった。伯父さんは、そうやって死んでいった友人たちのことを思い、自分は死ななかったと責めながら、長い一生を送ったと思うと、本当に戦争は恐ろしいと、光子は思った。ジェームス伯父さんが、その場の空気を和らげるためか、
「マイケルとイタリアのニースの町で会ったときは、びっくりしたな。」
「どうしてイタリアのニースにいたんですか。」
「マイケルはテキサス大隊を救い出したあとの休暇だったよね。」
「うん、そうだよ。」
「わしは人数の少なくなった442部隊の補給団として、ニースで合流するために行ってたんだ。ニースのあの賑やかな町の中を歩いていたら、向こうからマイケルが来るじゃないか。わしは、マイケルか。足はあるのかって聞いてしまった。日本では幽霊には足がないって言うだろう。わしはマイケルの幽霊かと思ったんだ。だって、マイケルは死んだという公報が入っていたからね。」
「そうだったのかい。」
「そうだよ。それで直ぐに収容所の兄さん、姉さんたちに知らせるため電報を打ったんだよ。でもそれは嬉しい電報で本当に良かった。」
それからしばらく442部隊のリユニオンのことについて話、昼食をして別れた。
マイケル伯父さんの一生も戦争という中で味わった苦しみを背負っての一生だった。ただ伯父さんの場合は、442部隊にいた日本人チャプレンが、戦後シカゴで教会を建てた。マイケル伯父さんはその教会のメンバーとして、奥さんともどもシカゴにいるときは礼拝を欠かさなかったそうだ。勿論、ジョージアに行ってからも、同じ流派の教会に出席していたが、最近、奥さんの病気のあとは、近所にある教会へ変わり、毎日曜日に礼拝に出席しているとのことだ。
マイケル伯父さんは、イエスを見出し、イエスが言った「世が与えられない平安をあなた方に与える」との約束、その平安をいただき、苦しいなかにも平安と喜びで生活したことと思う。いつの日かマイケル伯父さんとまた会うことがあったら、イエスを中心に天国で会える確信を話し合いたいと思っている。
09 09-25 442nd 1
1992年井上家リユニオンの時の写真
兄弟姉妹5人のうち一人かけていた。
後ろ一番左端が長男、勇さん、そしてジェームスさん、マイケルさん。
ジェームス・マイケル伯父さんたちの軍服姿がないのが残念。
一番前にいるのが一人娘のマツエ伯母さん
-------------------------------------
続きも読んでね。

伝記 井上家の人々

井上家の人々 VIII. 強制収容所へ

春のうららな日が差し込む店頭の椅子に座っていたお祖母さんは、そのあまりにも平安は雰囲気に、
「ねえ、おじいさん」と、店の品物のストックを数え見て回っているお祖父さんに語りかけた。
「何だね。」
「ええ、何とも穏やかで、心が和むので私たちの一生のことをあれこれ考え、感謝してたとこですよ。」
「本当にいろいろあったね。遠い昔、あんたと広島を出た日から。」
「私はあの日を思う度に、一生で一番いいことをしたと思ってるんですよ。おじいさん。あなたのほかに結婚する人はいなかったから。本当にありがとうね。」
「でも、あのあとからのことは思い出したくないだろう。」
「あのメキシコでのことも、考えてみれば、わがままに育った私が、おじいさんと一緒に良い生活を築くための教えだったと思ってますよ。」
「そう思えるのはいいことだね。あそこを必死の思いで出てからは、赤ちゃんのことは別にして、うまくいったね。」
「あの赤ちゃんのことを思うと、今も悲しいけれども、直ぐに勇さんが与えられ、嫁も日本から貰って、可愛い孫が二人も与えられ、おじいさん、私は幸せですよ。」
「本当に、本当にそうだね。いろいろ有難う。」
お祖父さんとお祖母さんのこの平和な会話も、生活も長くは続かなかった。日本とアメリカの険悪な状態が、長い間、聞こえてきていた日々だった。急にその険悪さが最高に達していた。戦争がいつ始まっても良いような状況だった。
もし日本とアメリカが戦争に突入したときのことを考え、お祖父さんは思った。「もし戦争になったら、わしは日本に背を向けられるだろうか。日本が大切か、家族の絆、そして中でのこの平和で穏やかな生活。」お祖父さんは考えに考えた。こんな苦しいことを決断しなければならないとは思っても見なかった。
今まで一生懸命やってきたビジネス、毎日多くの人たちがこの小さな店に買い物に来てくれたし、お風呂やと宿屋も日本からの若い人たちが便利に利用してくれて役に立っていたし、勇さんのリーダーの下に多くのメキシコ人たちが労働に励んでくれてレタスとストロベリーが多く収穫されていた。でもこのビジネスは全部、勇さんが良くやってくれるだろうから勇さんに渡すとしても、家族との交わりとその生活を壊してまで日本に忠誠をつくすべきなのか。どうしたら良いのか。
考えに、考えた結果、お祖父さんは最後に、どうしても日本に背を向けること、天皇陛下に弓を引くことなど到底できないと、涙を流してお祖母さんに話し、同意を得た。そして初秋のある日、お祖父さんとお祖母さんは日本に帰ることにした。
勇さんはそのお祖父さんとお祖母さんに殆どの貯金を持たせた。日本に帰って、土地家屋を購入し、当分の間仕事などしなくても生活できるに十分な額だった。勇さんの弟たちや妹もできるだけのことをして、お祖父さんとお祖母さんを日本に送り帰した。
それから勇さん夫婦が井上家の中心となり、家族を支えた。勇さんの妹、弟たちは、このときの正枝さん(勇さんの奥さん)がしてくれたことを忘れず、いつまでも姉さん、姉さんと言って感謝していた。
1941年12月7日。日米間の戦いが起こるとは予測していたけれども、ハワイのワイキキ奇襲攻撃などという形で戦争がはじまったのには、日本人も日系アメリカ人も、少なからず驚き、残念であった。
石を投げられたり、夜中に来て家にジャップなどと書かれたり、学校でも先生はじめみんなに白眼視され虐められたり、マーケットなどでもジャップ、ジャップ、売国奴などと呼ばれて売ってもらえなかったりした。
1942年2月19日。ルーズベルト大統領は、大統領令No.9066を発令した。その発令は、日系人が手引きをして第二の奇襲攻撃がカリフォルニアになされることを軍部が恐れたためとしている。しかし同じ敵国人であるドイツやイタリア系移民にはこのような隔たり政策はなかったのだから、日系だけをターゲットとした人種的偏見があったと、日本人、日系アメリカ人は思っている。特にアメリカ人である日系アメリカ人をも強制収容したことには多くの反響があった。
1942年3月27日。大統領令が出たあと、Gen. DeWillは全ての日本人、日系アメリカ人はカリフォルニアから去らなければならないことを強制した。
井上家に強制収容のための移動の命令が来たときは、レタスとストロベリーの収穫時だった。お祖父さんとお祖母さんに貯金の殆どを持たせたあとのはじめての収穫だった。この収穫は井上家にとっては重要な収入源だったのである。でもこの命令が来て出かけるまでには二週間となかったのである。二週間で今している生活を全て精算し去らなければならないのであるから、何もできなかった。地主は賃貸料をもらえればそれだけでよい、レタスもストロベリーもいらないとのことで、近所の人たちに話をしても足元を見られ、二束三文の値しかつけてくれなかった。そんなことなら労働を提供し、一緒に働いたメキシコ人に話しをすることにした。うまく売れば一週間のうちに二、三百ドルにはなるだけのレタスとストロベリーがあった。勇は五十ドルづつを要求したが、メキシコ人はそんな金はないと言って、十ドルづつで合計二十ドルをもらっただけだった。
強制収容所、一般にはキャンプと言われるところに持っていけるものは、一人スーツケース二つだけだった。それで近所の白人たちの中にも、そんな日系人をかばって買ってくれる人もいて、売れるものは全て売った。多くの白人たちは、家具やピアノなどの大きなものは見ているだけで、誰も買うとは言わなかった。買うと言ってもピアノ一つに十ドルとか二十ドルだった。日系人が強制的に移動させられたあとに残されたものは、無料で持ち出せることを知っていたからだ。そんなことを知っていても日系人はどうすることもできなかった。
ただ、着物などはお金を出してでも買ってくれる人たちがいた。正枝も日本のお父さん、お母さんが心を込めて整えてくれたものだったが、これから着るチャンスもなかろうと売った。お祖母さんが置いていった着物も全て売った。
正人はそのときのことを全然覚えていない。覚えているのは重いスーツケースを持たされたことだけだ。
はじめは汽車に乗せられた。窓には外が見えないように黒い布がかけられていた。誰もが恐ろしさで、その布を上げて外を見ようとしなかった。口にはしなかったが、みんな黒い布のかかった汽車を見たときは殺されると思った。
汽車が止って降ろされ、次はバスに乗せられた。バスの窓にも黒い布がかけれていて、外は見ることができず、何処へ連れて行かれるのか分からなかった。みんなバスに揺られて、口を開くものなど一人もいなかった。
バスがやっと止り、着いたところは砂漠の真ん中だった。収容所なのだろう。鉄条網がめぐらされ、入り口には高いタワーがあり、その上にはアメリカ兵が銃を持って見張りをしていた。少しでも鉄条網に近づくものがあると発砲された。
鉄条網の中にはかまぼこ型のバラックが並んで沢山建っていた。その中の一つのバラックの半分が井上家四人にあてがわれた家だった。砂漠の中のこのバラックで、それから二年半余住むことになったのである。このバラックでの生活で思い出されることは悪いことばかりだ。
部屋の仕切りがなく、親子四人、プライバシーなどない生活がはじまった。それでも勇は器用だったのであれこれと工夫し、少しでも家らしくしようと試みた。カーテンで仕切りを作って部屋らしくしたり、軍に要求するといろいろと支給してくれて家具なども少しづつ貰え、家らしくなっていった。
食事はメスホールと呼ばれるところで、キャンプの全員が集まって食べるので、バラックにはキッチンもダイニングもいらなかった。
折角、こうやって勇がバラックの中を少しでも家らしく整えてくれても、サンドストームが吹くと、ベット、家具、床、その他何でもあるものの上に、砂が三、四インチもたまった。サンドストームは朝、晩の二度は必ず吹くし、酷いときには日中にも吹くのだから、お掃除は創造以上に大変だった。
また、ここはアリゾナの砂漠で、湿気は少ないが、日中は120度前後の暑さになるのだから酷かった。それに日が沈むと夜はぐっと冷え込み寒くなるのだった。体の弱いものにはとても厳しいところだった。
正枝はこのキャンプ生活で、一つ感謝できることがあった。それはこの湿気のない120度の気候だった。正人の弟の徹は小児喘息で苦しんでいた。医者はこのままでは一生喘息で苦しまなければならなくなるだろうと言っていた。それを治すには、唯一つ、乾燥して湿度がなく、温度の高い土地への転地療法だけだと言われていた。そんなことをしてやることができず、可哀そうだが仕方ないと思っていた。ところがお金を使うこともなく、殺されると覚悟していたのに着いた土地が徹には最適の土地だった。これ一つでも感謝できることのある人は本当にまれなことである。
家族が一緒になって食事をすることができなかった。はじめのころは、正枝はメスホールに行っても家族だけで一つのテーブルについて食べていたが、そのうち子供たちは子供たちという雰囲気ができてしまい、それに入らないと子供たちも仲間外れにされたりした。また大人だけで話し合いたい相談ごとなども食事のときにしたりしているうちに、家族一緒でする食事がなくなってしまった。
子供たちはボーイスカウトのキャンプへ行ったような気分で喜び、親に側で煩く言われることもなく、皆でわいわいと言って食事ができるのを楽しんだ。でも少し大きい子供たちは、何かが違う、これでは家庭がない、親子の親しい交わりがないといって悩んだ子供たちも少なくなかった。またあとになってこのキャンプでのできごとを振り返ったとき、家族の生活がなかったことを悲しく思うようになったものたちも少なくなかった。
また子供たちは、親や先生に、自分達はどんな悪いことをしたのか、どうして鉄条網があるのか、どうして兵隊が銃をもって見張っているのか、自分達はジェールにいるのか、と聞いた。大人たちは、子供の心を思い、何と言って説明するか相談し合った。
09 08-25 Inoue Camp
1990年レーガン大統領のころ、アメリカの歴史上に起こった汚点の一つとも言うべき、アメリカ市民である日系アメリカ人を強制収容したことに対する謝罪金が支払われることになった。
しかしお金では癒されない痛みを持った日系アメリカ人は沢山いた。日本人であることを恥ずかしいと思った子供たちが多くいた。
日系アメリカ人の子供の一人の卒業式のときだった。その子はお母さんに、
「ママ、今日は卒業式だけど、ママは来なくてもいいよ。日本人は誰もいないからね。僕一人で大丈夫だから」と言って出かけていった。そのお母さんは子供たちの卒業式には出席することがなかったと言っていた。
またある日系アメリカ人は、日本人と言われたくないため、長いこと自分は中国人だと言っていた。キャンプに入る前、日本人と間違われないため中国人と書いたものを胸に付けていた中国人たちのことを思い出していた。日本語を勉強したいなどと思わなかったし、日本の食べ物さえ嫌いだと思っていた。
思春期をあの鉄条網が張り巡らされ、米兵が銃をもって見張っているキャンプで送った人たちは、また一つ違った怒りをもっていた。楽しく、将来に期待をもってデートしたりする年齢だっただけに、その人たちは自分達には思春期はなかったと言っている。

ユダヤ人は天地創造の神から選ばれた人種であるのに、歴史上いつの世でも迫害を被ってきた。選ばれたもの、また人と少し違うものたちはいつのときにも、人々から虐められたり、害を蒙っているのは、今の世でも同じことである。
第二次大戦のとき、ドイツで収容され、ガス・チェンバーで、シャワーに入ると言われて殺されていったユダヤ人、600,000人のことを思うと、どうして人はあんなことができるのだろうか。あれは悪魔の仕業としか思えない。悪魔が善に勝っているように見えた。
しかし天地創造の神は、あそこにもいた。1948年ユダヤの国はエルサレムに再建国された。それだけでなく多くのユダヤ人たちが、イエスを主なる神、メシヤと信じはじめている。そしてJews for Christとの運動が盛んになっている。
創造主なる神が、天地を創造したときから人を救う計画を着々と進めている。戦争は人の欲望、誇りなどから起こるが、神はその人の罪をも用いて、神のプランを進めるのである。
この神の計画を知りたい人は、どうぞ聖書の最後の本、黙示録、そして旧約の中のエゼキエル書、イザヤ書などを読んでください。

「紅茶きのこ」のことをオハイオの久美子さんから聞き、調べた結果を続きに書きますので見てください。そしてコメントもお願いね。
プロフィール

Tsukasa Hiroko

Author:Tsukasa Hiroko
初めの家は塵でできており、砂の上に建っていました。
四十年前にシカゴで木の家を岩の上に建てさせていただきました。
今はレンガの家が岩の上に建つようにしていただいたようです。
金の家になれる日を望んでいます。

検索フォーム
ブロとも申請フォーム
QRコード
QRコード
訪問者数

Page Top

Powered by FC2 Blog | | Template Design by スタンダード・デザインラボ