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雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ち付けても、倒れることはない。岩を土台としているからである。

クリスチャンの生活

2010年の感謝祭

毎年11月の第三木曜日にやってくる感謝祭。感謝祭が来るとクリスマスは目の前に。その一週間あとにはお正月となり、新しい年が来る。
2010年の感謝祭礼拝では、過去を振り返り、私たちは何処から来たのか、将来何処へ行くのかを知り、感謝してけじめをつけることを学んだ。
私たちは塵で創られたもの。しかし神の愛と恵みであるイエスの血によってのみ義とされること。そしてイエスは人の行くべき道を示し、永遠の命を約束してくださったことを今一度学び感謝した。このことに感謝せずに何に感謝できるだろうか。

家族の感謝祭は例年のように娘のところで祝わせてもらった。25ポンドのターキーとターキーの胸だけを別に三つ焼いていた。残ったターキーをたくさん貰ってきた。感謝なことである。Hirokoはハムを焼き、アペタイザーのフライワンタンを作るだけ。

これがアメリカのハム(10ポンド)で、すでにクックされているので塩見を抜くためにパイナップルのジュースをかけて弱い火で5時間くらい焼くだけ。スライスしてあるので食べるとき各自が好きなだけとればいいのでスライスする必要もない。パイナップルを飾っておくだけ。簡単、簡単。
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これはフライ・ワンタン
牛、豚のひき肉各1ポンドづつ
卵1ヶ
グリーン・オニオン一束(細かく切る)
塩、胡椒、生姜(細かく切る)ピーナッツ・バターか砂糖少々
細かく切ったキャベツを入れてもよい
これらをよく混ぜ合わせ、ワンタンの皮に包む
1インチほどの油で揚げる
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アペタイザーとドリンクのコーナー
今年の新顔はアペタイザー・コーナーの海老
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二年に一度会える姪の家族が今年は加わり、新しい顔ぶれも来たので全部で22人だった。この出席者全部の上の神からの豊かな祝福があるように。また神の愛と恵みにより約束されている永遠の命が各自の上にありますように。
それらの人々のスナップシャット。
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ビール・ドリンク・フリップ・アップ・ゲームを楽しみ、ビールをたくさん飲んでいる若い人たち。運転する人は飲んでないので安心。
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クリスマス・キャクタスが綺麗に咲いていた
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続きに教会で行われた感謝祭ランチョンに持って行った20ポンドのターキーの写真を載せたので見てください。
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愛されている光子

愛されている光子 9.分かった

正人は結婚を前提にして光子に会いに日本に行くからと言ってきた。「ええ、ちょっと待って。いつ来るの。でも考えなくちゃいけないね。もう、三年になるものね。手紙のやり取りしはじめてから。光子も三十歳になるのだし。結婚して、アメリカへ行こうか。」そんなことを考えながら正人に返事を書いた。正人から九月に日本に行くと言って来た。

そして九月に羽田で正人に会い、「ああ、あの手紙を書いた人だ。話下手で、日本語では話ができないらしい。わあ、大変。考えても見なかった。」まず山形に連れて行き、山司の本家などに挨拶に行った。「金髪じゃないね。日本人みたいだけど、日本語が話せないね」など言われてしまった。

そのあと祐天寺の伯父さん、伯母さん、横浜にいるお父さんの友人ご夫妻にも、いろいろ心配かけましたがと言って挨拶に行った。お茶の先生、最後に雅歌教授の家を訪ね正人を紹介した。教授は「淋しくなるね。でも山司さんはアメリカに行ったら、きっと神の子になれるね。正人さんのお父さんとお母さんは熱心なクリスチャンだそうだから。正人さんも山司さんもどうぞ神の子になってくださいね。これが神の御心なのだろうね」と言われた。光子は神の御心で行動するということをはじめて聞いた。雅歌教授の奥さんは、「そう、山司さんの肋骨の出所がアメリカに居たのだから、なかなか見つからなかったわけね」などと難しいことを言われた。

井上家のお祖父さん、お祖母さんのいる広島へ行く前に、横浜へ行きたいという正人を連れて行ったとき、横浜の港の見える丘の上で求婚され、エンゲージの指輪まで見せてもらった。光子は、今一度考えたく、広島へ行く汽車の中で返事をすると言って約束し、その日はホテルに送った。その晩、みんなに賛同されたし、雅歌教授に神の御心と言われたことに感動し、正人が無口だが優しそうだし、結婚に踏み切ろうと考えた。

広島へ行き、十月十三日の金曜日に、神戸の領事館で結婚するつもりだと報告した。なぜ十三日の金曜日なのかとお祖父さんと、お祖母さんは何かいけないことをするように言われた。いろいろ話を聞くと、どうも迷信のようなので光子は迷信など信じないことを話、理解してもらった。それに正人の帰国の日が迫っているのでその日しかなかった。

お祖父さんとお祖母さんは納得し、喜んでくれて、光子という子がいるとは聞いていたんだけど、もしものことがあったらいけない。折角アメリカから来て結婚できないで帰るのは正人が可哀そうだと、広島でもあの人、この人と物色していたそうだ。

光子と正人は、十月十三日金曜日に、神戸の領事館で、正人のお母さんの弟、義人伯父さんに立ち会ってもらって結婚した。京都を見たいという正人と新婚旅行を兼ねて見て周り、肺癌で弱っているお祖父さんをもう一度見舞い、「さようなら」を言って、正人は一人でシカゴに帰って行った。

光子はそのあとアメリカへ行く準備をし、荷物が多くなり、二月に船で行くことにした。それでお祖父さんの最後をみとることができ、お葬儀も無事終わり、お祖母さんとも半月ほど一緒に住み、いろいろ後始末をしたあと、出航日が近づいているのでやきもきしているお母さんのもとに、一月半ばに帰った。山形は勿論、お母さんの里で光子が疎開のときお世話になった北海道の丸山家、東京では雅歌教授、偏屈先生はじめ多くの友人知人に、出航日の前日まで忙しく挨拶して回った。出航当日は素晴らしい冬晴れの日だった。その日は朝早く、眠い目を擦りながら、北鎌倉まで出かけ円覚寺の老師にも挨拶をした。

船は貨物船であまり大きな船ではない上に、「二、八の荒れ」と言って一年で一番海があれる月だそうだ。これからの船旅が思いやられた。パッセンジャーはアメリカで勉強するという若者たち二人と光子だった。貨物船なので三人は一等船客並みで船長さんと一緒に食事ができるとのことだった。光子の見送りの人たちがあまりにも多いので船員さんたちから驚かれてしまった。天気は上々船の上でパーティーでも始まるようだった。光子は別れの寂しさを感じなかった。あっちこっちでみんな楽しく写真を撮ったり、「天気が良くてよかったね。」「これは幸先良しだね。」「元気でね。」「里帰りさせてもらえるのでしょう。」「直ぐ帰って来てね」などとお喋りに時間が経つのを忘れた。

「ぼーーーー」と一つだけ。これは下船十分前の合図。光子は、ここでみんなと違う自分を知らなければならなかった。みんなは「さようなら」と挨拶をしてくれたあと、三々五々、長い長いはしごを注意深く降り始めた。光子はそのはしごを下ることはできないのだ。はじめて光子の心に別れということの辛さ、悲しさが押し寄せてきた。でも光子は、里帰りをするつもりだから、地球の裏側へ行こうが、これで会えなくなるなんてことはないと言い訳をして悲しみを脇へ追いやった。

二度目のドラがなった。パーサーがやって来て、テープを投げるのは一段上のデッキからだからと注意してくれた。

大学の友人、職場の同僚など若い人たちは、あんな梯子一分で下りられると言って、最後の最後まで一緒にいてくれた。あと一分のドラが鳴り響くと、みんなはしぶしぶと降りて行った。光子は一人になって梯子のところにぼんやりと立っていた。

パーサーがまた来て、テープ投げを手伝ってくれた。みんなに渡されたテープを下にいる一人一人にデッキから投げ落とした。その紙のテープが鉄でできていて、いつまでも切れずにお互いの手を中にあって意志が通じられるのではないかと思った。そんな光子の思いとは別に船は出帆のドラを響かせながらゆるゆると岸壁を離れ始めた。船が1インチ離れれば手の中にあるテープも1インチ出て行った。そして船が向きを変え始めると、テープは途中で切れてしまったり、相手が手を離したりしたため、ぎっしり握り締めていた光子の手の中には、あの人、この人のテープが残った。

このときの写真をアルバムに整理して送ってくれた人の手紙の中に、光子のお母さんは埠頭の一番端まで走って行って、離れて行く船をじっと見て涙していたと書いてきてくれた。お母さんは、光子とは今生の分かれで二度と会えないと言っていたそうだ。

光子は一人になってしまった。さっきまでの友人知人に囲まれたときは過ぎてしまったのだ。これから北海道まで、日本の島影を見ながら船は航海するはずだが、何も見えなかった。部屋係の人が来て、寒くなったから部屋に入るように注意してくれたので部屋に入ったが何もする気になれず、ベットの上に身を投げて静かに涙の流れるままにしていた。出航前の四、五日の疲れがどっと出たのか涙しながらいつの間には眠りに落ちていった。

夕食の時間を知らせにきてくれて目が覚め、急ぎ用意をして食堂に行った。その日の夕食はお客さん全員がキャプテンと一緒にすることができた。途中で他の二人のお客さんは席を立って行ってしまった。光子は忙しくて食事もよくしてなかったので美味しく食事をし、楽しいひとときをキャプテンやパーサーと過ごすことができた。眠くなり部屋に帰り、朝まで何も知らずよく寝ることができた。二日目も食事以外は殆ど寝ていた。眠るだけ眠り、疲れが取れていくと、今度は船酔いのため頭を枕から上げられなかった。悲しみに浸っている時間などなかった。

部屋係をするアシスタントの若いボーイも初航海とのことだった。ベテランの部屋係が青い顔をしたそのボーイに食事を運ばせたり、水を持って来させたり、部屋の掃除をさせたりした。光子は口を開くと何か出てきそうな状態だったが、光子の目がベテランの部屋係に何か言ったのだろう。そんな光子に、こうやって新しい人は訓練するのが習慣で、この子は若いし、やる気のある子だから三日で平常になるでしょうと言った。本当にその子は二日後に、大嵐の中、食事を運んできて、上手にテーブルの上においていった。船が左右上下に揺れてもテーブルの上のあるものは動かないかった。光子もそのボーイの真似をして甲板に出て歩いたり、シャワーに入ったりしてみたが、直ぐに諦めて、ベットにもぐりこんで静かにしていた。十一日間の航海中、八日間は船酔いのためベットにいて、殆ど食べなかった。サンフランシスコに着く前日にベットを離れ、シャワーをして、キャプテンと一緒に最後の夕食をさせてもらった。

サンフランシスコから、光子は飛行機でシカゴへ、荷物はそのまま船でパナマ運河を通り、ニューヨークへ、そしてハドソン河からシカゴに入るので二週間後に荷物と会えた。
シカゴのオーヘア飛行場には、正人と正人のご両親、これから光子がパパ、ママと呼んで仕えていく人たちが迎えに来てくれていた。

シカゴは何だか汚い街だなあと思ったのが、光子の第一印象だった。シカゴは札幌と同じ緯度なので寒い冬の暖をとるために、石炭が燃やされていた。そのためだそうだけど、裸の木々が真っ黒だった。家の外の壁もうす黒かったし、家の中の白いペンキの塗ってある壁も薄黒く汚れていた。

この真っ黒な木々もエープリル・シャワーがやってくると黒さがなくなり、そこから芽が吹き出し、一本一本の木々が生きてきたのには驚かされ、生きているというのは何と素晴らしいことかと思わされた。そして家々の内外の壁も、毎年、三月の末か、四月の初めにやってくるイースターの前に、特別のスポンジで拭いてきれいにした。何も分からない外国でお姑さんたちと三ヶ月一緒に住んだことはいいことだった。それから別のアパートを借り、スープの冷めない近さに住んだ。お姑さんたちが出席している教会の家庭集会へ誘われて出席したり、教会へ出席するなら禅寺へもと考え、佛教会と呼ばれる佛教徒の集会にも出席したりした。

光子はこれが主婦業なのかとつくづく感心して、今までとは全く異なった生活を楽しんだ。正人は朝六時に家を出るので五時に起きて朝ご飯とお弁当を作り、食べさせて送り出すが、朝に弱い光子はそのあとまたベットにもぐり込んで一人でゆるゆると眠った。雅歌教授はダブルベットはいいものですよと仰ったが、そうではなかった。夏は手足がぶっつかって暑いし、冬はシーツやブランケットを取られてしまって、寒くて目が覚めたりした。それに床から高いのでベットから落ちはしないかと怖かった。事実、正人は何回かベットから落ちた。

一眠りしてから目を覚まし、さて、何をしようかと考えるのだった。時間に追われるように生活していた光子には、全く思いもよらない生活だった。でも何をしようかなどと考える時間が光子には恐ろしかった。淋しさが押し寄せ、いてもたってもいられなくなるからだった。誰にも電話をかけられないし、訪ねる人もいないし、何もすることのない時間が一杯あるのだった。

そうだ!お掃除をする日だった。二人だけのアパートの部屋は汚れているわけでもないが、埃に弱い正人のために掃除機をかけることにした。掃除機をかけているとガーがーと音はするが、それ以外は何の音もなくシーンとした静けさがあり、それが胸を締め付ける淋しさになった。光子はその淋しさを吹き飛ばすように歌をうたった。口をついて出てきた歌は、讃美歌の一つ「いつくしみ深き友なるイエスは!」だった。一番、二番と掃除機の音を伴奏に歌い続けながら三番の歌になった。

「いつくしみ深き、友なるイエスは、かわらぬ愛もて みちびきたもう。
世の友われらを 捨て去るときも、祈りにこたえて 労わりたまわん」と歌い続けながら、友に会えない淋しに押しつぶされそうだった。友が光子を捨て去ったのではなく、考えてみれば光子が友を捨て、アメリカに来たのだ。でも光子は淋しかった。讃美歌の最後には、労わってくれるとあった。そのとき、またあの声が聞こえた。
「光子、光子。」ああ、またあの声だと思っているうちに、
「わたしは、今、ここにいるよ」と言った。

光子の思いも行動もいっとき止った。光子は掃除機を止め、衝動にかられ立っていられなくなり、キッチンのテーブルに座った。そして今の声はイエスだ。イエスが今ここにいて、見ておられると考えられた。でもそれをどのように理解するのか分からなかった。しばらくキッチンのテーブルに座っていたが、何か心が、そして体が温かくなった。光子は一人じゃない。イエスが一緒にいてくださるという安心した気持ちになった。

光子には考える時間がたくさんあった。声が聞こえた日から、気がつくとあの声はなんだったかを考えていた。キリスト教では、イエスの愛と恵みの表れとしての十字架の死とそれに続く蘇りは、信仰の中心の一つである。光子は十字架上に見られるイエスの哀れな苦難の死と、それに続く蘇りは信じられないでいたときだった。あの声は、イエスが一緒にいてくれると言った。死から蘇らなければ一緒にいてくれることはできない。それでは蘇りは本当にあったと信じられることなのだ。蘇りが信じられるならば、光子の疑問、「お祖母さん、何処へ行ったの」「光子が死んだらどこへ行くの」に答えが与えられたことになった。人は死んでも、イエスが蘇ったように、死を乗り越えた命があることになる。こんなに明確に疑問が解決できたのだから、信じるのが当たり前なのではないかと考えていた。聖書には、信じたものはひとりも滅びることなく永遠の命をえられる(ヨハネ福音書3章16節)と書いてある。

「でも待ってよ。お祖母さんも死んで蘇ったあとイエスのところへ行ったのだろうか」と気になった。お祖母さんはイエスのことなど知らなかった筈だから。教会が行っていた修養会に出席できるチャンスがあり、そこで講師にお祖母さんの行った先のことを聞くことができた。
「イエスを知るチャンスがなくで死んだ人たちの死後はどうなるのでしょうか。」
「その質問は本当に大切で、歴史の中で多くの人たちがそのことを論じ合ってきたのです。でも私は簡単に、それは神の責任ですと答えたいのです。聖書には、イエスは死なれて蘇られるまで三日間ありましたが、その三日間、獄に捕らわれている霊どものところに下って行き、宣べ伝えることをされた(第一ペテロ書3章19節)とあります。これはイエスを知らないで死んだ人たち、またイエスに従わなかった人たちの霊のいるところと私は考えます。そこでイエスは宣べ伝えたのです。イエスが誰かを。」
「そうですか。ありがとうございます。」
「死んだ人のために祈ることも長いこと議論されました。あなたは誰のために祈りたいのですか。」
「お祖母さんなんです。日本の山形の田舎の田舎に住んでいて、イエスのことを聞くこともなかったと思います。」
「そうですか。まずあなたの救いを確実にして、あなたが祈ってあげなさい」と仰った。
「はい。ありがとうございます」と光子は言った。わあ、これは大変。いろいろ分かったんだけどね。

そんなとき正人は日本に帰って来るようにと言ってくれた。光子のお母さんと約束したんだそうだ。三年したら帰すって。それで三年目の二月に日本に帰ることになった。光子は、雅歌教授と教授の読書会の人たちとも話し合い、光子はキリスト教が少し分かったことを話し、イエスを信じる祈りをするときの証人にもなってもらおう。日本行きは、雅歌教授的に言えば神の供えてくださったこと、必要なことと感謝して行ってこようと思った。

寒くて、汚いシカゴの冬から逃れ、梅の花の咲き始めた日本へ娘と一緒に旅立った。日本は良かった。知人、友人が喜んで迎えてくれた。この三年間に亡くなった人もいたことは悲しかった。山形のお母さんのところにまず帰った。光子は、お母さんが軽い脳溢血を患い倒れたことを聞かされびっくりした。遠い国に行ったことが胸を締め付けた。お母さんは、そんな光子の悲しみを吹っ切るように、元気に、孫達に囲まれてまごまごするねと言って喜んでくれた。光子は、そんなお母さんに信じる対象を変えることを言うのを少し臆したが、ある夜、思い切って切り出した。光子はキリスト教信者になることを。お母さんは以外と簡単に、おまえは山司家を出て、他の家に嫁に行ったもの、結婚の相手の家庭の皆さんが信じていると同じ信仰を持つことは大切なことと許してくれた。

これで思い残すことはない。あとは雅歌教授に「先生、分かりましたよ」と言って祝福のうちにキリスト者となろうと思った。そんなとき東京から、四月のはじめ、箱根にある大学の寮で光子のためにに歓迎会をするが、日時はどうかと電話があった。まただ!雅歌教授が言うだろう、神のみ心なのだよって。天では、一人の不信者を迎えて喜んでくれるだろう。

分かったと言っても、分かっていないことが一つあった。それは「罪」に関わることだった。これが光子のこれからの人生に問題になることをこのときは知らなかった。
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肉まん、あんまんのレシピを続きにかきます。見たら作ってください。そしてコメントもお願いします。
プロフィール

Tsukasa Hiroko

Author:Tsukasa Hiroko
初めの家は塵でできており、砂の上に建っていました。
四十年前にシカゴで木の家を岩の上に建てさせていただきました。
今はレンガの家が岩の上に建つようにしていただいたようです。
金の家になれる日を望んでいます。

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